竇瑾とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 竇瑾の意味・解説 

竇瑾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/13 08:24 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

竇 瑾(とう きん、生年不詳 - 454年)は、北魏軍人官僚は道瑜。本貫頓丘郡衛国県。

経歴

後漢司空竇融の後裔を自称した。若くして文学で名を知られ、中書博士から中書侍郎となった。繁陽子の爵位を受け、寧遠将軍の号を加えられた。たびたび軍功を挙げて、秘書監に転じ、衛国侯の爵位に進んだ。冠軍将軍の号を加えられ、西部尚書に任じられた。北魏が赫連定を破って関中を平定すると、竇瑾は使持節・散騎常侍・都督秦雍二州諸軍事・寧西将軍・長安鎮将に任じられ、毗陵公に封じられた。長安に駐屯すること8年、関中の治安の安定につとめた。

平城に召還されて、殿中都官尚書となり、そのまま散騎常侍の位を受けた。446年太平真君7年)、蓋呉の乱に対する討伐に参加して、先駆けて巴西郡の首領たちの説得工作にあたり、数千家を帰順させ、従わない者を処断した。また少数民族の首長の仇天爾ら3000家を五将山で降伏させた。蓋呉の乱が平定されると、竇瑾は再び長安に駐屯した。後に平城に召還されて、再び殿中都官となり、典左右執法をつとめた。

451年(太平真君12年)、皇太子拓跋晃が死去すると、竇瑾は司徒を兼ね、景穆の諡号を奉った。鎮南将軍・冀州刺史として出向し、清廉で質実倹約な統治で知られた。後に平城に召還されて、内都大官となった。454年興光元年)、竇瑾の娘婿の鬱林公司馬弥陀に臨涇公主を妻として迎える話が持ち上がると、竇瑾は弥陀に断るよう教唆したが、このときに誹謗呪詛の言があったとして、弥陀とともに処刑された。

子女

  • 竇秉(中書学生、父とともに処刑された)
  • 竇持(中書学生、父とともに処刑された)
  • 竇依(中書学生、父とともに処刑された)
  • 竇遵(末子、父や兄たちが難に遭うと逃亡して免れた。楷書や篆書を得意として、平城の諸碑や台殿楼観宮門の題署の多くは竇遵の書いたものであった。尚書郎・濮陽郡太守をつとめて、受託収賄のことが多かった)
  • 女(司馬弥陀の妻)

伝記資料

  • 魏書』巻46 列伝第34
  • 北史』巻27 列伝第15



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「竇瑾」の関連用語

1
12% |||||

2
4% |||||

3
4% |||||

竇瑾のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



竇瑾のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの竇瑾 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS