福原長者原官衙遺跡
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福原長者原官衙遺跡(ふくばるちょうじゃばるかんがいせき)は、福岡県行橋市南泉にある官衙遺跡。2017年(平成29年)10月13日、国史跡に指定された。
概要
福岡県と大分県との境にある英彦山山系から派生する丘陵地の先端付近の標高15メートル前後の段丘面に立地する。本遺跡の約4キロメートル北西には草野津推定地、約1.5キロメートル南東には、みやこ町の県史跡豊前国府跡が位置する。本遺跡の南には、県史跡豊前国府跡、馬ヶ岳、御所ヶ岳北麓を結び東西方向に伸びる古代官道が通る[1]。
1996年(平成8年)度から1997年(平成9年)度に福岡県教育委員会が県道拡幅に伴う発掘調査を行い、大規模な溝(のちに官衙区画溝の北西部分と判明)が確認されていた。その後、2010年(平成22年)度から2012年(平成24年)度にかけて九州歴史資料館が実施した東九州自動車道建設に伴う発掘調査によって、区画溝のほか掘立柱の回廊状遺構、南と東の門跡、脇殿と考えられる南北棟の大型掘立柱建物群が確認された[1]。また2012年(平成24年)度から2015年(平成27年)度まで、行橋市教育委員会が高速道路部分以外の地区で遺跡の範囲と内容を確認する発掘調査を行い、遺跡北側で区画溝や掘立柱塀及び大型の掘立柱建物群を確認したことで、本遺跡が大規模な官衙遺跡であると考えられるようになった[1]。
本遺跡の遺構は主として官衙政庁部分に相当するとみられ、3期に整理されている。Ⅰ期は7世紀末から8世紀初頭、Ⅱ期は8世紀第1四半期、Ⅲ期は8世紀第2四半期である。I期は、幅約3メートルの素掘りの区画溝が東西127.8メートル、南北135メートル以上の長方形にめぐり、その内側には掘立柱建物がある[1]。
Ⅱ期になると、Ⅰ期の区画溝が埋め戻され、幅約5メートルに及ぶ素掘りの区画溝が約150メートル四方にめぐり、その内側に幅11.8メートルの空閑地を隔てて一辺117.8メートルの掘立柱回廊状遺構がめぐる[1]。回廊状遺構には格式高い八脚門の南門、四脚門と推定される東門が開く。回廊状遺構による区画の内部には、中央北側で正殿と推定される桁行7間、梁行3間の東西棟掘立柱建物が、その南側には東西の脇殿とみられる桁行6間、梁行2間の南北棟掘立柱建物が並ぶ[1]。
Ⅲ期になると、Ⅱ期の正殿に相当する建物や南門、東門、回廊状遺構が建て替えられたと推定される。施設を全体的に簡素化し、回廊状遺構を撤去するとともに、木柵あるいは板塀に造り変えられたとみられる。この時期に官衙の機能も変容したものと推定される[1]。
遺物には、最も初期のものとしてⅡ期の西脇殿より出土した7世紀第4四半期に比定される須恵器杯蓋(転用硯)があるが、出土土器の多くは8世紀前半のものである。本遺跡の官衙的性格を示す遺物として、転用硯を含む複数の硯が出土している点をあげることができる[1]。瓦も出土しているが少量であり、屋根に葺かれていたとしても部分的であったと推定される。このほか、鋳造・鍛冶関連遺物として鞴羽口、送風管、取瓶、銅滓、精錬滓、鍛錬滓、鍛冶滓、鉄床石などが出土していることから、造営にあたって敷地内で建築金物を製作していた可能性がある[1]。
このように福原長者原官衙遺跡は、その規模において一般的な地方官衙を上回っている。西海道には7世紀末に大宰府政庁や筑後国府跡の古宮国府(第1期国府)などの巨大な官衙政庁跡が存在するが、本遺跡のⅠ・Ⅱ期遺構の規模もこうした官衙施設に並ぶ[1]。また、Ⅱ期遺構にみられる、四周の区画溝と回廊状遺構との間に空閑地をめぐらせた構造は、藤原宮の平面プランに類似することから、これをモデルとして造営された行政施設である可能性が考えられる。Ⅱ期政庁の南門が大型の八脚門であることと併せて、この官衙の格式の高さを示している。本遺跡の成立時期が7世紀末まで遡る点は国府相当の施設としては最古級であり、しかも、その変遷を8世紀第2四半期の終焉まで間断なく辿れることは重要である[1]。
これまで古代豊前国の国府跡には『和名類聚抄』の記述等に基づくいくつかの推定地があった。その後の発掘調査の成果から、みやこ町の県史跡豊前国府跡に比定されてきたが、この遺跡では8世紀中葉を遡る様相が不明であった[1]。県史跡豊前国府跡の北西1.5キロメートルに位置する福原長者原官衙遺跡は、他の令制国の国府整備に先行して7世紀末から8世紀中葉まで営まれた大規模な行政施設と考えられることから、成立当初から後の国府と同様の機能を有していたかは今後の課題としても、Ⅰ・Ⅱ期には豊前国の統治において中心的役割を担っていた可能性が指摘される[1]。
このように、福原長者原官衙遺跡は古代律令国家成立期の地方統治の実態を知る上で重要な遺跡であり、盛土保存された高速道路部分を含めて遺構の残存状況も良好である[1]。
脚注
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