王傑_(北周)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 王傑_(北周)の意味・解説 

王傑 (北周)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/12 06:42 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

王 傑(おう けつ、515年 - 579年)は、中国西魏北周軍人。もとの名は文達。本貫金城郡直城県。

経歴

北魏の龍驤将軍・楡中鎮将の王巣の子として生まれる。532年、子都督を初任とし、534年孝武帝に従って関中に入り、都昌県子の爵位を受けた。宇文泰に才能を見出されて、揚烈将軍・羽林監に抜擢され、まもなく都督を加えられた。宇文泰は「王文達は万人敵なり」と評した。従軍して潼関を奪い、沙苑の戦い河橋の戦い、あるいは邙山の戦いに参加して、いずれも勇敢な戦いぶりで知られた。功績により宇文氏の姓を受けた。岐州刺史に任ぜられ、撫軍将軍・銀青光禄大夫の位を加えられ、爵位は公に進んだ。大都督・車騎大将軍・儀同三司侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を歴任した。

554年于謹の下で江陵を包囲した。ときに城柵の内に長い矟をうまく使う者がいて、西魏軍の登ろうとする者たちの多くを斃した。于謹は王傑にこれを射るように命じ、王傑は弓矢で応じて倒した。西魏軍はこのため城柵に登って侵入でき、江陵を抜くことができた。于謹は喜んで、「わたしに大事を成さしめたのは、公のこの弓矢である」と言った。

557年、北周の孝閔帝が即位すると、爵位は張掖郡公に進み、河州刺史として出向した。563年、位は大将軍に進んだ。随国公楊忠の下で漠北を通って北斉を討ち、并州までいたって帰還した。568年、宜州刺史に任ぜられた。571年、斉公宇文憲の下で北斉の斛律光の攻撃を防ぎ、位は柱国に進んだ。572年、涇州総管に任ぜられた。王傑は若い頃から軍旅にあったため、行政事務に通じなかったが、州府の長官を歴任して、思いやりのある政治をおこなって、民衆に慕われた。578年宣帝が即位すると、上柱国の位を受けた。579年、65歳で死去した。河鄯鄧延洮宕翼七州諸軍事・河州刺史の位を贈られ、鄂国公に追封された。を威といった。

子の王孝僊は、開府儀同大将軍に上った。

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「王傑_(北周)」の関連用語

1
56% |||||


3
14% |||||

4
12% |||||

5
12% |||||

6
10% |||||

7
8% |||||

8
4% |||||

王傑_(北周)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



王傑_(北周)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの王傑 (北周) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS