照厳寺とは? わかりやすく解説

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照厳寺

読み方:ショウゴンジ(shougonji)

宗派 真宗大谷派

所在 福井県あわら市

本尊 阿弥陀如来

寺院名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。

照厳寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:50 UTC 版)

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照厳寺
所在地 福井県あわら市清王36-1-1
位置 北緯36度14分14.6秒 東経136度13分36秒 / 北緯36.237389度 東経136.22667度 / 36.237389; 136.22667座標: 北緯36度14分14.6秒 東経136度13分36秒 / 北緯36.237389度 東経136.22667度 / 36.237389; 136.22667
山号 聯珠山
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 嘉暦元年(1326年
開山 行覚
法人番号 4210005004112
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照厳寺(しょうごんじ)は、福井県あわら市(旧坂井郡金津町)にある浄土真宗真宗大谷派)の寺院。山号は聯珠山。本尊は阿弥陀如来

沿革

嘉暦元年(1326年)に本願寺第三世覚如の直弟行覚が越中国氷見に堂を建立したのが始まりと伝えられる。第二代覚順は応安7年(1374年)に善如の命により越前国吉田郡久末(現在の福井市幾久)に移った。[1]

一向一揆の拠点の一つとなったが、永正3年(1506年)8月の九頭竜川の戦い朝倉貞景に敗北し、越前を追われ加賀に逃れる。第八代祐誓の代、大永の頃に加賀国江沼郡二ツ梨村(石川県小松市)に堂を再建。[1][2]

慶長5年(1600年)、第十一代祐念は大聖寺城陥落の際に戦死し、二ツ梨村の堂も焼失した。第十二代祐慶は越前に戻り、元和3年(1617年)に柿原郷清王村に照厳寺を再建。第十六代覚純が明和2年(1765年)に現在の場所に移した。[1]

本願寺および照厳寺が従っていた超勝寺の分裂に際しては東派(大谷派)に帰参した。[3]

脚注

  1. ^ a b c 境内の碑文
  2. ^ 『福井県史』通史編3 近世(加越の一向衆と朝倉氏との戦い, 敗北後の動向)
  3. ^ 『福井県史』通史編3 近世(末寺門徒の分裂)

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