浅利頼任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/10 00:02 UTC 版)
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浅利 頼任(あさり よりとう、? - 永禄5年(1562年))は比内浅利氏の家臣。祖父は浅利則章。父親は浅利正頼。比内浅利氏中興の祖浅利則頼は叔父。
浅利氏一族として扇田花岡城の城代を務め、当主則頼の側近としても活動していた。浅利牛欄とは仲が良かったようで、松の方(則頼の女)と牛欄の結婚は頼任の手引きによるものだった。武人としての器量には欠け、秋田愛季が扇田花岡城を攻撃した時は城主の浅利則祐を見捨てて逃げ出し、則頼に厳しく叱責された(則祐は自害した)。牛欄が則祐の自害を聞いて出奔すると、それに従って頼任も出奔した。しかし独鈷城からの追っ手に追い付かれ、芦名領の境界近辺で殺害された。この時頼任は老年で馬に乗れず、馬乗りを雇って逃げていたが、馬乗りに裏切られて振り落とされたところを仕留められた。
子の浅利頼雄は久保田藩に仕えた。
参考文献
- 鷲谷豊「秋田の中世・浅利氏」(無明舎1994)
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