曽鳳韶とは? わかりやすく解説

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曽鳳韶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/21 13:16 UTC 版)

曽鳳韶(そう ほうしょう、1375年[注釈 1] - 1402年)は初の官僚。江西行省吉安府廬陵県(今江西省吉安市吉安県)の人。壬午殉難に際して自害した。忠毅(ちゅうき)。

生涯

洪武30年(1397年)の春に、榜二甲第十三名の進士となった[要出典]建文年間には監察御史となった[1]。燕王朱棣(のちの永楽帝。建文帝の叔父にあたる)が建文帝に謁見した時、皇帝だけが通ってよい道を歩いた上、建文帝に対する拝礼もしなかった。誰もが朱棣を恐れて何も言わない中、曽鳳韶だけが「たとえ叔父甥の間柄であっても、殿上にあって君臣の礼を弁えぬことは不敬にございます[注釈 2]」と非難した[3]

朱棣靖難の変を起こすと、建文帝側は朱棣に対し、兵を収めて燕に戻るようにという書状を送ろうとした。皆が尻込みする中、曽鳳韶ただ一人が勇敢にも使者の役目に志願した[3]

1402年、靖難の変は朱棣側の勝利に終わった[注釈 3]。彼は永楽帝として即位すると、直言の士である曽鳳韶を召し抱えたいと思い、元の職位を保証して召し出したが、曽鳳韶は応じなかった。そこで永楽帝は、御史よりも高い官位である侍郎[注釈 4]に就任させることを提案した。断りきれないと悟った曽鳳韶は、建文帝への忠義を服の襟に血書し、衣服を取り替えないよう妻子に命じた上で自害した。享年29。妻の李氏も後を追った[1][3]

南明弘光帝によって、忠毅と諡された[4]

脚注

注釈

  1. ^ 没年と享年から算出。
  2. ^ 原文は「殿下宜展君臣之禮,宮中乃敘叔侄之情。燕王由皇道,不拜,大不敬[2](殿下には宜しく君臣の礼を展ぶるべし、宮中には乃ち叔侄の情を叙すなり。燕王の皇道に由り、拝せざるは、大いに不敬なり)」。
  3. ^ 建文帝生存説を唱える『明史記事本末』は、曽鳳韶も落ち延びる建文帝と運命を共にしたいと願ったが叶わず、その時点で死をもって忠義を全うせんと誓ったという(巻17、18)。
  4. ^ 監察御史は正七品、六部の侍郎は正三品。

出典

  1. ^ a b 『明史』巻143曽鳳韶伝。
  2. ^ 『姜氏秘史』巻2。
  3. ^ a b c 『立斎間録』巻2。
  4. ^ 『弘光実録鈔』巻2。

参考文献

  • 明史』巻143曽鳳韶伝
  • 『立斎間録』
  • 『明史記事本末』
  • 『姜氏秘史』
  • 『弘光実録鈔』



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