早川兼揚とは? わかりやすく解説

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早川兼揚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 03:23 UTC 版)

 
早川兼揚
時代 明治、大正、昭和
生誕 明治4年2月4日1871年3月24日
死没 昭和13年(1938年2月14日
改名 常彦(初名) →兼揚
墓所 東京芝白金瑞聖寺
主君 島津忠義島津忠重
氏族 早川氏
父母 父:兼知、母:貞
兄弟 兼揚、文子(和泉豊介の妻)、清志、鉄、綱
以下、側室の子:四郎、重盛、今子、申子、福子
登女(税所誠之介の娘)
悦子(西脇宗吉[注釈 1]の妻)、兼敏、嘉、
兼通、兼茂、兼英、
豊(稲木重彦の妻)、兼菫、
澄(平郡宏[注釈 2]の妻)
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早川 兼揚(はやかわ かねあき)は島津家の家令。早川兼親家の初代から4代が島津家より拝領の書画・文等を歴史的資料として島津家へ返納した。

生涯

  • 明治4年(1871年)2月4日、鹿児島にて生まれる。
  • 島津家に給仕として仕える。
  • 家従。
  • 東京伊皿子大園寺(大円寺)の杉並への移転が決まったことにより、絶家した早川兼武家の墳墓を東京芝白金瑞聖寺へ改葬。さらに、早川兼親家の墳墓も東京芝白金瑞聖寺に新しく建てる。新しい墳墓完成するまでの間、貞(母)、幾彦(叔父)、申子(異母兄弟)、嘉(次女)、多嘉(叔母:祖父・早川兼彜の養女)を東京鮫洲海晏寺に葬る[注釈 3]
  • 家扶。
  • 家令心得。
  • 昭和2年(1927年)昭和金融恐慌により、島津家の資産運用において損失を出したことにより、引責退職。
  • 昭和13年(1938年)2月14日、東京市芝白金今里にて死去。享年67。

人物

奉職歴

  • 島津家、給仕。
  • 島津家、家従。
  • 島津家、家扶[1]
  • 島津家、家令心得。

出典

  1. ^ 『大正過去帳』P136「早川兼知」

注釈

  1. ^ 和歌山県出身。陸士22期、日本陸軍中将、羅南師管区司令官。医学博士西脇宗一の父。
  2. ^ 鹿児島県出身。国立京城高校鉱山科。満州国政府鉱業監督所。薬局自営。
  3. ^ 昭和56年(1981年)海晏寺の墓地が都道拡張工事の区域に入るので早川雅彦(8代)が東京芝白金瑞聖寺へ改葬。



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