旧堀田廣之家住宅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/07 03:02 UTC 版)
| 旧堀田廣之家住宅 | |
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| 情報 | |
| 施工 | 杉田和平(棟梁) |
| 構造形式 | 木造、瓦葺[1] |
| 建築面積 | 205 m² [1] |
| 階数 | 2階建[1] |
| 竣工 | 1912年 |
| 所在地 | 〒496-0852 愛知県津島市祢宜町68 |
| 座標 | 北緯35度10分36.2秒 東経136度43分13.1秒 / 北緯35.176722度 東経136.720306度座標: 北緯35度10分36.2秒 東経136度43分13.1秒 / 北緯35.176722度 東経136.720306度 |
| 文化財 | 登録有形文化財 |
| 指定・登録等日 | 2016年11月29日[1] |
旧堀田廣之家住宅(きゅうほったひろゆきけじゅうたく)は、愛知県津島市祢宜町68にある邸宅。
1912年(明治45年)から1913年(大正2年)にかけて建てられ、津島を代表する町屋とされている[2]。2016年(平成28年)には主屋、蔵、門、煉瓦塀、板塀が登録有形文化財に登録された。祢宜町通りに面しており[2]、本家である旧堀田家住宅(重要文化財)の隣接地にある。
歴史
堀田廣之の経歴
1887年(明治20年)、堀田廣之は堀田家(堀田理右衛門家)10代当主堀田善之の三男として生まれた[3]。愛知県立第三中学校(現・愛知県立津島高等学校)を1期生として卒業した後、1905年(明治38年)4月には法政大学予科に進学した[3]。同年夏には第一高等学校(現・東京大学)と中央大学にも合格し、同年9月には法政大学予科を退学して中央大学専門科に入学した[3]。中央大学卒業後の1908年(明治41年)3月、堀田廣之は津島に帰郷した[3]。
堀田廣之家の分家
1912年(明治45年)10月30日には堀田廣之家の地鎮祭を執り行い、1913年(大正2年)7月には本家の隣接地に堀田廣之家がほぼ完成した[3]。棟梁は杉田和平[3]。1918年(大正7年)には蔵が建てられた[3]。堀田廣之家は本家の資産管理の後見役を果たした[2]。
1910年代から1920年代、堀田廣之は本家が行っていた新田経営を差配していた[4]。また、1920年代後半には花卉園芸業に着手し、津島における園芸業の先駆けとされる[4]。名古屋市など大都市向けの花卉の需要が増加していた時期であり、1930年代以降には花卉園芸業が家業となった[4]。1920年代前半には尾西鉄道会社(現・名鉄尾西線)の経営にも関与し、尾西鉄道が名古屋鉄道に吸収合併される際には清算業務にあたった[4]。
近年の動向
2016年(平成28年)11月29日、旧堀田廣之家住宅の主屋、蔵、門、煉瓦塀、板塀が登録有形文化財に登録された[1]。
経済史学者の中西聡(慶應義塾大学教授)や建築学者の西澤泰彦(名古屋大学大学院教授)らは、旧堀田廣之家の史料群(堀田廣之文庫)を建築や経営など多角的な観点から研究し、2022年度には堀田廣之文庫の史料目録を作成した[4]。
建築
- 主屋 - 木造2階建、瓦葺[2]。建築面積205㎡[2]。1912年(明治45年)竣工[2]。
- 蔵 - 土蔵造2階建、瓦葺[2]。建築面積31㎡。大正期竣工[2]。
- 門 - 木造、瓦葺[2]。間口2.0m、袖塀付。1912年(明治45年)竣工[2]。
- 煉瓦塀 - 煉瓦造[2]。延長19m[2]。1912年(明治45年)竣工[2]。
- 板塀 - 土塀、瓦葺[2]。延長12m[2]。1912年(明治45年)竣工[2]。
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主屋
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門
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煉瓦塀
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板塀
脚注
参考文献
- 堀田英一郎『堀田家の由来』堀田英一郎、1985年。
- 堀田英一郎『堀田家の由来』堀田克之、2012年。
- 久田和彦『文人堀田知之と年譜』堀田英一郎、1979年。
- 中西聡、西澤泰彦「第1部 堀田廣之文庫の研究成果 第2部 堀田廣之文庫目録」『大正・昭和期における住宅関連産業の展開と「暮らし」の変容に関する総合的研究』慶應義塾大学、2023年。
外部リンク
- 旧堀田廣之家住宅主屋 文化遺産オンライン
- 旧堀田廣之家住宅主屋、蔵、門、煉瓦塀、板塀 愛知県
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