戒能氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/27 13:35 UTC 版)
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戒能氏は、越智氏(物部氏の子孫)河野氏族。伊予国守護代を務め、代々、家老職を担い、河野家の重臣であった。河野通之が守護であったころの守護代河野伊豆入道は、戒能氏と考えられる(東寺百合文書・一〇九〇、大徳寺文書・一〇九八、なお『築山本』は、「此時戒能豆州独り国権を執る」と記す)。南北朝期に河野氏から、縁ある道後戒能の地(義安寺付近)より戒能を名乗り分出した庶流である。河野支流別府通定流とする説もある[1][要検証 ]。
戒能家譜より名越城主名越氏は戒能氏の分かれである(築山本)。永享七年(一四三五)、河野通久が大友持直討伐のため豊後出陣中、かの地で討死すると、幼主犬正丸(のちの教通)を補佐して分国支配にあたったのは、ほかならぬ戒能氏であった。守護代であった。永享七年(一四三五)七月一六日、将軍足利義教は、戒能安房入道あてに御内書を発し、軍勢の発向を命じている(明照寺文書・一二四三)。戦国期にも、河野氏の重臣であった。『河野分限録』に「御家老職五人」のうちに「戒能備前守通森」の名が見え、『南行雑録』にも「河野弾正少弼通直御下之衆」武将一三人のうちに戒能伊賀守通運(家老)の名がある。室町末期と推定される「伊予湯築古城之図」に「戒能筋」なる通りがあり、戒能氏の屋敷が湯築城下(松山市持田付近)にあった[2][出典無効]。
戦国時代の史料『河野分限録』に戒能氏が土佐長宗我部の侵略に備えて、浮穴郡大熊城・小手滝城・塩ケ屋森城三か所の城主とある[3][出典無効]。
豊臣秀吉の四国平定で和睦後、再興が叶わず河野氏が滅亡。浮穴郡にて庄屋(幕府より苗字、帯刀を認められた)となる。その後、一族は各地域に分かれ広がっていった[4][要検証 ]。
脚注
- ^ “ようこそ城郭放浪記へ”. 城郭放浪記. 2025年3月30日閲覧。
- ^ “愛媛県生涯学習センター”. i-manabi.jp. 2025年3月30日閲覧。
- ^ “愛媛県生涯学習センター”. www.i-manabi.jp. 2025年3月30日閲覧。
- ^ “京都散歩道”. 京都散歩道 (2023年5月7日). 2025年3月30日閲覧。
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