徐彦伯とは? わかりやすく解説

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徐彦伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 09:39 UTC 版)

徐 彦伯(じょ げんはく、生年不詳 - 714年)は、唐代文人官僚。名は洪、彦伯はであり、字をもって通称された。本貫兗州瑕丘県[1][2]

経歴

7歳で文章を作ることができた。太行山下にを結んだ。河北道安撫大使の薛元超に推薦され、対策に及第した。永楽県尉に任じられ、蒲州司兵参軍に任じられた。その文章は典雅かつ優美であり、当時の人に韋暠や李亘と併称して「河中三絶」と称された。職方員外郎に転じた[1][3]

聖暦元年(698年)、彦伯は廬陵王李顕房州に迎えて、給事中に進んだ。ときに王公卿士たちの多くが言葉を慎まず、周興や来俊臣といった酷吏たちに陥れられていたため、彦伯は「枢機論」を著してかれらを戒めた。武則天が『三教珠英』の編纂を命じると、彦伯は李嶠らとともにその事業を総裁した。宗正寺卿に転じ、斉州刺史として出向した[4][5]

神龍元年(705年)、中宗(李顕)が復位すると、彦伯は入朝して太常寺少卿となり、修国史を兼ねた。『則天実録』が完成すると、その編纂に参与した功績により、彦伯は高平県子に封じられた。ほどなく衛州刺史として出向し、善政で知られた。まもなく蒲州刺史に転じ、入朝して工部侍郎となった。ほどなく衛尉寺卿に任じられ、昭文館学士を兼ねた。景龍3年(709年)、中宗が南郊を親拝すると、彦伯は「南郊賦」を作って献上した。景雲元年(710年)、昭文館学士を兼ねたまま、銀青光禄大夫の位を加えられ、右散騎常侍・太子賓客に転じた。先天元年(712年)、病のため引退を願い出て、許可された。開元2年(714年)、死去した。『文集』20巻があって、当時に通行した[6][5]

脚注

  1. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3004.
  2. ^ 新唐書 1975, p. 4201.
  3. ^ 新唐書 1975, pp. 4201–4202.
  4. ^ 旧唐書 1975, pp. 3004–3006.
  5. ^ a b 新唐書 1975, p. 4202.
  6. ^ 旧唐書 1975, pp. 3006–3007.

伝記資料

参考文献




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