張九思 (元)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/26 08:06 UTC 版)
張 九思(ちょう きゅうし、1242年 - 1302年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人の一人。字は子有。大興府宛平県の出身。
概要
張九思は薊州節度使を務めた張滋の息子で、1265年(至元2年)より宿衛(ケシクテイ)に入った後、皇太子チンキムに見出されて重用されるようになった[1]。南宋が平定された後、その資産の多くはチンキムに分配されたが、張九思が都総管府事・工部尚書としてこれを管理した[2]。また、1270年(至元7年)ころには朝廷の有力者である劉秉忠の娘を娶っており、劉秉忠の人脈から1275年(至元12年)から1282年(至元19年)にかけて行われた大慶寿寺の改修に関わっている[3]。
1282年(至元19年)春、皇太子チンキムがクビライとともに北方に巡幸すると、大都に残留した丞相のアフマド・ファナーカティーに暗殺計画が行われることとなった[4]。暗殺の実行犯である「妖僧」高和尚と千戸の王著らは3月17日夜、皇太子とその配下と偽って健徳門から都城に入った[5]。この時、宮中にいた高觿と張九思は偽皇太子一行の言動に不審を抱き追いかけたものの、一足遅く丞相のアフマドと左丞の郝禎は偽皇太子一行に殺害されてしまっていた[5]。事件が勃発したのはまだ暗い時間帯で、衛士たちは混乱していたが、張九思は高觿とともに「この者たちは賊である」と叫んで衛士を指揮し、実行犯の王著らは捕らえられたという[5]。もっとも、『元史』張九思伝や高觿伝に基づく暗殺事件の流れは不審な点が多く、皇太子チンキムが事件の背後にいたことが意図的に隠蔽されているのではないかと考えられている[6]。また、事件後に罪に連座する所であった張易を張九思が弁護しているが、これも皇太子の介入を隠蔽するためのものであったと指摘されている[7]。
1285年(至元22年)にチンキムが急死すると、詹事院の廃止が検討されたが、張九思の説得によって廃止を免れたという[8]。
1293年(至元30年)には中書左丞・兼詹事丞の地位を拝命したが、1294年(至元31年)にはクビライ・カアン死去した。新たに即位したオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の政権において詹事院は徽政院に改められ、張九思は徽政副使とされた[9]。また同年11月には資徳大夫・中書右丞の地位に進み、『世祖実録』・『裕宗実録』の編纂に携わるようになった[9]。『世祖実録』は 1295年(元貞元年)6月に完成し、現在伝わる『元史』世祖本紀は『世祖実録』に基づくものである[9]。『元史』世祖本紀においてアフマドに関する記録が意図的に限定されていること、アフマド暗殺事件に関する皇太子一派の関与が隠蔽されていることなどは、張九思の編纂方針が影響していると考えられている[10][11]。
1298年(大徳2年)には栄禄大夫・中書平章政事の地位を拝命し、1301年(大徳5年)には大司徒の地位を加えられ、1302年(大徳6年)には光禄大夫の地位に進んだが、この年に61歳にして死去した。金界奴という息子がおり、光禄大夫・河南省右丞の地位に至っている[12]。
張九思は大都の城南に「遂初亭(遂初堂)」という建物を有しており、これは施仁門の北、崇恩福元寺西門西街北に位置していたという[13]。 張九思は当代の著名な文人をしばしば遂初亭に招いており、虞集が「花竹水石の景勝は京師第一(甲)である」と評するなど、大都城内でも屈指の名園として知られていた[14]。
脚注
- ^ 孟2010,84頁
- ^ 元史』巻169列伝56張九思伝,「張九思字子有、燕宛平人。父滋、薊州節度使。至元二年、九思入備宿衛、裕皇居東宮、一見奇之、以父蔭当補外、特留不遣。江南既平、宋庫蔵金帛輸内府、而分授東宮者多、置都総管府以主之、九思以工部尚書兼府事」
- ^ 孟2010,84-85頁
- ^ 片山1983,29頁
- ^ a b c 片山1983,30頁
- ^ 片山1983,39
- ^ 『元史』巻169列伝56張九思伝,「十九年春、世祖巡幸上都、皇太子従、丞相阿合馬留守。妖僧高和尚・千戸王著等謀殺之、夜聚数百人為儀衛、称太子、入健徳門、直趨東宮、伝令啓関甚遽。九思適直宿宮中、命主者不得擅啓関、語在高觿伝。賊知不可紿、循垣趨南門外、撃殺丞相阿合馬・左丞郝禎。時変起倉卒、且昏夜、衆莫知所為、九思審其詐、叱宿衛士併力撃賊、尽獲之。賊之入也、矯太子命、徴兵枢密副使張易、易不加審、遽以兵与之、易既坐誅、而刑官復論以知情、将伝首四方。九思啓太子曰『張易応変不審、而授賊以兵、死復何辞。若坐以与謀、則過矣、請免伝首』。皇太子言于帝、遂従之。九思討賊時、右衛指揮使顔進在行、中流矢卒、怨家誣為賊党、将籍其孥、九思力辯之、得不坐」
- ^ 『元史』巻169列伝56張九思伝,「阿合馬既敗、和礼霍孫拝右丞相、中書庶務更新、省部用人、多所推薦。是年冬、立詹事院、以九思為丞、遂挙名儒上党宋道・保定劉因・曹南夾谷之奇・東平李謙、分任東宮官属。二十二年、皇太子薨、朝議欲罷詹事院、九思抗言曰『皇孫、宗社人心所属。詹事、所以輔成道徳者也、奈何罷之』。衆以為允」
- ^ a b c 孟2010,90頁
- ^ 孟2010,90-91頁
- ^ 片山1983,33-34
- ^ 『元史』巻169列伝56張九思伝,「三十年、進拝中書左丞、兼詹事丞。明年、世祖崩、成宗嗣位、改詹事院為徽政、以九思為副使。十一月、進資徳大夫・中書右丞。会修世祖・裕宗実録、命九思兼領史事。大徳二年、拝栄禄大夫・中書平章政事。五年、加大司徒。六年、進階光禄大夫、薨、年六十一。子金界奴、光禄大夫・河南省右丞」
- ^ 孟2010,92頁
- ^ 孟2010,92-93頁
参考文献
- 張九思 (元)のページへのリンク