康煕の暦獄
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明の末期、イエズス会士の協力を得て西洋天文学の百科全書ともいうべき『崇禎暦書』が編纂された。それに基づく暦法は、伝統的な暦法との激しい論争を経て正式な採用が決定されるが、頒行される前に明は滅亡してしまった。
その直後、速やかに北京に入った清は、イエズス会士アダム・シャールの進言に基づいてこの暦法を採油を決め、時憲暦と名付けた。このとき、アダム・シャールは『崇禎暦書』を増補改訂、『西洋新法暦書』と名付けて進呈し、暦を司る欽天監の監正に就任した。
しかし、西洋暦法の採用には、回回科を廃止されて行き場を失ったイスラム系の天文学者や、保守的な漢人の知識人から反対があった。その不満が順治帝の突然の死をきっかけに噴出したのが康煕の暦獄で、その間はイエズス会の宣教師は欽天監を離れ、暦の計算は回回暦科の吳明炫が副監として担った。暦法は明の大統暦によったとも、あるいは回回暦とを混合して用いたともいわれる[1]。これは、政治・文化的な問題が絡み合った闘争であった。
漢人の中で特に積極的に反論を展開していたのが楊光先(1597年-1669年)で、新暦のそれまでの伝統と異なる部分を糾弾した。彼の指摘の中には天文学の知識不足による誤解も多いが、新暦の定気法によって生じる暦法上の問題を正しく指摘し、平気法こそが正しい節気を定めるとした[2]。
また楊光先は、キリスト教の教義に懸念を表明し、宣教師らは暦算の知識を隠れ蓑に、不穏な教えを広めているとした。そして、「依西洋新法」と時憲暦に記しているのは、西洋に中国を文化的に従属させる意図があるとした[3][4][5]。地球球体説にも疑念を表明した[6]。
楊光先は奏上を繰り返し、精力的に著作を発表し、良く読まれた。新暦支持派は、彼の著作の序文に「明季」という不穏な表記が含まれている、と反撃した。楊光先は出頭して釈明せざるを得なかった[7]。
1661年、順治帝が急逝した。後継者の康熙帝が八歳だったため、オボイらが政治を司ることになった。このとき楊光先は、暦法の名用の問題はふれずに、キリスト教と西洋文明の問題に的をしぼって反論に転じた[8]。これに先立って、順治十年四月(1657年)、前回回科秋官正だった吳明炫が「新法の誤り」を上奏していた[9]。
そして、康煕三年十二月(1664年)、礼部は楊光先の主張の通り、時憲暦に「依西洋新法」とあったのを「奏准」に改めた。アダム・シャールは斬罪を言い渡された。後にゆるされるも、釈放の直後に死去した。数名の欽天監の漢人官僚はゆるされず処斬された[10]。教会は閉鎖され、宣教師たちはマカオや広東に追放された。ただし、フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)ら四名は北京に留まり、絵画の制作や時計の修繕などに従事するなどしており、要人とのつながりが絶たれたわけではない[11]。
アダム・シャールに代わり、楊光先が欽天監監正、吳明炫を副監、そして 馬祜が満州人の監正となった。この中でただ一人、暦算の専門家であった吳明炫が暦の計算を担当し、回回科も復活した[12]。楊光先は平気法の正当性を確かめるため、古い秘術的な候気という手法にうったえたが[13]、失敗に終わった。以前からの天文生は、西洋暦法になじんだものが多く、新体制に心服しなかった[14]。そこで新たに天文生たちが増員され、吳明炫の指導をうけた[15]。1668年には、吳明炫は大統暦が回回暦に符合しないと奏上した[16]。
康煕6年(1667年)には康煕帝の親政が形式上はじまっていたが、実質上の権力の所在はかわらなかった。そのような中、康煕7年(1668年)には、天象の解釈や報告が適切に行われず、また年に二回目の閏月の挿入が奏上されるなど、欽天監の機能不全を示す事態がおきていた。
そこで、康煕帝は、注意深く徐々にこの問題に関与していった。まず、馬祜に天象の報告の不手際の責任を問うた。ついで頃合いを見て、楊光先と吳明炫に、フェルディナント・フェルビーストも含めて、共同して事にあたるように命じた[17]。
しかし、吳明炫とフェルビーストの意見は合わなかった。そんな中、数度にわたる時憲暦の太陽の位置の予測は、幸いなことに観測によくあっていた[18]。このとき、吳明炫は予測の提出を拒否していた[19]。楊光先は、暦は伝統に基づくべきであり、第一の目的は吉日の決定で、宣教師らはそれに関する知識に欠けていると抗弁した[20]。康熙帝は、問題の協議を儀政王などの最高ランクの高官に託した。彼らは協議を重ねたが、暦算の知識に欠けていた[21]。
フェルビーストは、回回暦は雨水と立春の太陽の位置に大きな誤差があると指摘していた。そこで、これらの時の太陽の位置を含むいくつかのテストで、吳明炫とフェルビーストの優劣を決めることになった。この観測は1669年に高官らの臨検のもと実施され、時憲暦に軍配が上がった。新暦は復活し、楊光先と吳明炫は欽天監を去り、後に断罪された。かわってフェルディナント・フェルビーストが欽天監監副に任じられた[22][23]。このあと、同年中に康熙帝は権力を握っていたオボイらを粛清する。楊光先と吳明炫は、さらにその後、各々別の機会に処罰される。
ただし、定気法への反対は、梅文鼎ら西洋天文学推進派にもあり、民間ではその後も論争は続く[24]。また、キリスト教の問題は、後にまたクローズアップされることになる。
フェルビーストは1669年から70年にかけて新たな観測機器導入し[25]、1678年までに『康煕永年暦』を編纂、以後の暦の編纂の基準にする。『康煕永年暦』の理論は『西洋新法暦書』とかわらないものの、太陽に関する数値は改訂されている[26]。『西洋新法暦書』は康煕十二年(1673年)、フェルビーストらによって改訂され、『新法暦書』(100巻)と書名を変えた[27]。時憲暦の表紙の「依西洋新法」から「奏准」への変更も維持された。
参考文献
- 王广超. 明清之际定气注历之转变, 自然科学史研究,2012,31( 1) : 26 -36
- 橋本敬造『崇禎暦書』の成立と「科学革命」関西大学社会学紀要 12巻2号 pp. 67-87 1981
- 橋本敬造, 2007, 西法批判のなかの天学 : 康煕初年の暦獄を中心にして: 関西大学東西学術研究所, 21–38 p.
- 潘鼐, 西洋新法历书提要, 任继愈主编 中国科学技术典籍通汇 天文卷 第八分册 大象出版社 1993, pp.643-650
- 褚龙飞,石云里. 《崇祯历书》系列历法中的太阳运动理论[J]. 自然科学史研究,2012,31(4):410-427. DOI:10.3969/j.issn.1000-0224.2012.04.003.
- 杜昇云 [ほか] 主编. 中国古代天文学的转轨与近代天文学, 中国科学技术出版社, 2008.12, ("十一五"国家重点图书出版规划项目・科技史文库 . 中国天文学史大系). 9787504648419. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-Ia1000067842
- Chu, Pingyi. “Scientific Dispute in the Imperial Court: The 1664 Calendar Case.” Chinese Science, no. 14, 1997, pp. 7–34. JSTOR, http://www.jstor.org/stable/43290406. Accessed 10 Mar. 2025.
- Chu, Pingyi Trust, Instruments, and Cross-Cultural Scientific Exchanges: Chinese Debate over the Shape of the Earth, 1600–1800. Science in Context. 1999;12(3):385-412. doi:10.1017/S0269889700003501
- Chu, Longfei. “From the Jesuits’ Treatises to the Imperial Compendium: The Appropriation of the Tychonic System in Seventeenth and Eighteenth-century China,” Revue d’histoire des sciences 70 (2017), 20;
- Jami, Catherine, The Emperor's New Mathematics: Western Learning and Imperial Authority During the Kangxi Reign (1662–1722) , OUP, 2011
- ^ Jami 2011, n.28, p.62,
- ^ Chu,P.1997, p.11
- ^ Chu, P.1997,p.12
- ^ 橋本2007, p.24
- ^ 時新安衛官生楊光先、叩閽進摘謬論,糾湯若望新法之謬,且言:「時憲書有『依西洋新法』五字尤不合。」(『清史稿』時憲志一、推步因革)
- ^ Chu, P.1999, pp. 397-8.
- ^ Chu, P.1997, p.15
- ^ Chu, L. 1997, p.
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- ^ Jami 2011,p.58
- ^ Jami 2011, n.28, p.62,
- ^ 候気は、律管(ピッチパイプ)に灰を詰め、対応する方位に向けて配置する。すると、節気や中気の日には、対応する律管に詰めた灰が飛ぶとされた。風などの影響をさけるため、二重に閉鎖した部屋でおこなわれた。前漢末あたりに始り、『後漢書』律暦志や『隋書』律暦志に詳しい記述がある。
- ^ Chu, L. 1997, p.19
- ^ Jami 2011, p.59
- ^ Jami 2011, p.57
- ^ Chu, L., 1997, pp.19-20
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- ^ 橋本、2007, p.24
- ^ 王2012
- ^ Wang & Sun 2019, pp.187-8
- ^ Wang & Sun 2019, pp.180-1
- ^ 潘1993, p.650
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