平山城_(下総国)とは? わかりやすく解説

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平山城 (下総国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 14:11 UTC 版)

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平山城
千葉県
平山城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
主な城主 千葉輔胤
遺構 土塁、空堀
指定文化財 なし
位置 北緯35度34分17.5秒 東経140度11分31.6秒 / 北緯35.571528度 東経140.192111度 / 35.571528; 140.192111座標: 北緯35度34分17.5秒 東経140度11分31.6秒 / 北緯35.571528度 東経140.192111度 / 35.571528; 140.192111
地図
平山城
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平山城(ひらやまじょう)は、千葉県千葉市緑区平山町にあった日本の城

歴史

平山は、千葉氏と深い関係のあった地である。平常将が永承年中に平山寺を創建したという記録があり、一説にはこれが東光院の前身ではないかと言われている。また、常将は、平忠常の乱で戦死した者たちの冥福を祈るため、平山に4つの寺を創建したという言い伝えもある[1]。東光院の裏山から平安時代の壺が発見されているなど、いずれにしても平山は古くから開けた土地であった。

平山城の造成時期は定かではないが、室町時代になると寺崎城主の千葉輔胤馬加康胤父子を追討した後、一時期この城に居住した。

文明3年(1471年)に古河城を追われた足利成氏が「千葉」の千葉孝胤の下に逃れたとされている(『鎌倉大草紙』)が、この「千葉」を平山城のことを指すとする説がある[2][3]

「千学集抜粋」によれば、「康胤御子胤持、輔胤、孝胤、勝胤まで以上5世は平山に在しければ、平山よりご参詣在りて、妙見宮にて御元服也。(中略)屋形様千葉より平山へ御越し、又長崎へ移らせらる。孝胤(中略)平山に居り佐倉へ御上り也」とある。

構造

城郭内の配置や形状については、現在、土塁や空堀がところどころ分断されており、明確でない。突き出した台地中央に土塁と空堀があり、これが城域を概ね2つの区画に分けており、内側の区画には妙見社がある[4]

城より西南には、物見櫓が2箇所あり、見晴らしが良かったようである。また、千葉介の子どもが生まれた際に産湯を組んだ井戸があったと伝わる[5]

外側の区画は「志久」と呼ばれており、「宿」に通じるものがあることから、家臣団の居住区であったと見られる[6]

アクセス

JR外房線鎌取駅より徒歩45分。

脚注

  1. ^ 『日本城郭大系6巻 千葉・神奈川』 (新人物往来社、1980年) P154
  2. ^ 和氣俊行「文明三年(一四七一)の足利成氏の房総動座をめぐって-動座からみる関東足利氏の権力的性格-」(『千葉史学』50号、2007年)
  3. ^ 黒田基樹「享徳の乱と古河公方の成立」(黒田基樹編『足利成氏とその時代』【関東足利氏の歴史 第5巻】戎光祥出版、2018年)P98.
  4. ^ 『日本城郭大系6巻 千葉・神奈川』 (新人物往来社、1980年)P154
  5. ^ 『平山郡誌』
  6. ^ 『日本城郭大系6巻 千葉・神奈川』(新人物往来社、1980年) P155



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