寿禧和碩公主
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寿禧和碩公主 | |
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続柄 | 道光帝第八皇女 |
称号 | 寿禧和碩公主 |
身位 | 和碩公主 |
出生 |
道光21年12月26日(1842年2月5日) |
死去 |
同治5年8月2日(1866年9月10日) |
配偶者 | ザラフンガ |
家名 | 愛新覚羅氏 |
父親 | 道光帝 |
母親 | 彤貴妃舒穆魯氏 |
寿禧和碩公主(じゅきわさくこうしゅ、道光21年12月26日(1842年2月5日) - 同治5年8月2日(1866年9月10日))は、清の第8代皇帝 道光帝の娘(八女)。生母は彤貴妃舒穆魯氏。
生涯
幼少期
道光21年(1842年)12月26日 に誕生。 生母は当時彤貴妃であった舒穆魯(シュムル)氏であった。
咸豊5年(1855年)11月、寿禧和碩公主の封号を授かり、副都統熙拉布(シラブ)の子である 瑞林(ズイリン) に降嫁することが決まった。
咸豊10年(1860年) に、瑞林はザラフンガ(扎拉豊阿) に改名。
婚姻と冊封
同治2年(1863年)10月、正式にザラフンガと婚姻。 同年 11月7日、寿禧和碩公主は「回門(結婚後の里帰り)」を行い、公主と夫のザラフンガは 蟒袍補服(高官用の礼服) を着て礼を執り行った。 その際、公主の母彤太妃は寿安宮にて婿へ食事を振る舞った。
同年末、清廷より官房租庫(政府の賃貸収入)から、寿禧和碩公主と寿荘和碩公主にそれぞれ500両(銀貨)の支給が決定した。 しかし、公主府の財政難が明らかとなり、翌年には支給額が各800両に増額された。
寿禧和硕公主の冊封式は、同治2年(1863年)11月25日辰時(午前7~9時) に行われた。 しかし、当時の清朝は財政困難であり、公主の金冊(封爵の証となる金の書簡)は、金ではなく銀に金メッキを施したもの であった。
早逝
同治5年(1866年)8月2日 に薨去。 翌日、皇帝の命により孚郡王が10名の侍衛を率いて弔問し、遺体の奉移の際には鐘郡王が10名の侍衛を率いて葬儀に参列した。
参考文献
- 『清史稿』(巻166 表六 - 公主表)
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