富爾佳斉大戦
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富爾佳斉大戦(フルギヤチ-タイセン[1])は、史料にみえる初めてのフルン勢 (海西部) とマンジュとの戦役である。
- ^ 滿洲實錄. 2. 四庫全書. "ᡨᠠᡳᡯᡠ ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠴᡳ ᡩᡝ, ᡥᠠᡩᠠᡳ ᠴᠣᠣᡥᠠᡳ ᡝᠮᡤᡳ ᠠᠮᠪᡠᠯᠠ ᠠᡶᠠᡥᠠ : taidzu fulgiyaci de, hadai coohai emgi ambula afaha : 太祖富爾佳齊に哈達の兵と大いに戰へり"
- ^ a b イルダンガ, ildangga, 伊勒當阿 (滿洲實錄)/ 宜爾當阿 (清史稿)。バイシャン, baishan, 拜斯漢 (滿洲實錄)/ 擺斯漢 (清史稿)。
- ^ 疑問:『東夷考略』の「海西考」にみえる「擺思哈」 と同一人物か。
- ^ “ᡝᠯᠮᡳᠨ elmin”. 满汉大辞典. 遼寧民族出版社. p. 100 . "〔名〕额勒敏,清初部落名。"
- ^ “ᠵᠠᡴᡡᠮᡠ jakūmu”. 满汉大辞典. 遼寧民族出版社. p. 834 . "〔名〕扎库木,清初部落名。"
- ^ a b c d e f g h i 満和蒙和対訳 満洲実録. 刀水書房
- ^ a b c d ニカリ (ᠨᡳᡴᠠᡵᡳ, nikari, 尼喀哩)、トゥルデイ (ᡨᡠᠯᡩᡝᡳ, tuldei, 圖爾德)、ダイムブ (ᡩᠠᡳᠮᠪᡠ, daimbu, 岱穆布)、アラミン (ᠠᠯᠠᠮᡳᠨ, alamin, 阿拉敏)。
- ^ 万暦10年のワンの死後、即位したフルガンも万暦11年に死亡して、ハダが後継者争いで乱れている時に、イェヘのチンギヤヌ (ブジャイの父) とヤンギヌ (ナリムブルの父) が干渉して内訌を激化させたことを指す。
- ^ 建州部領袖・王杲の子・アタイが、グレで明軍の李成梁に殺された際、アタイの妻がヌルハチの祖父・ギオチャンガの孫娘であった関係で、ギオチャンガとタクシ (ヌルハチ父) もグレに駆けつけたが、明軍により共に殺害されたことを指す。
- ^ 万暦12年にチンギヤヌ (ブジャイ父) とヤンギヌ (ナリムブル父) が、明軍の計略にはまって、部下もろとも大量に殺戮された「市圏之計」を指す。
- ^ アリンチャ・バクシ (ᠠᠯᡳᠨᠴᠠ ᠪᠠᡴᠰᡳ, alinca baksi, 阿林察・巴克什)。*バクシは中国語「博士」の音訳で、一種の称号。
- ^ フブチャ・ガシャン, hūbca gašan:瑚卜察・寨 (滿洲實錄-2)、戶布察・寨 (太祖高皇帝實錄-2)。
- ^ フルギヤチ・ガシャン, fulgiyaci gašan:富爾佳齊・寨 (滿洲實錄-2)、富兒家齊・寨 (太祖高皇帝實錄-2)。
- ^ ᡨᠠᡳᠮᠪᡠᠯᡠ (taimbulu):泰穆布祿 (滿洲實錄, 太祖武皇帝實錄)、代因布祿 (太祖高皇帝實錄)。
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- 2 富爾佳斉大戦の概要
- 3 参照
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