外為ブローカー (直物取引)とは? わかりやすく解説

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外為ブローカー (直物取引)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/19 16:25 UTC 版)

外国為替ブローカー(がいこくかわせブローカー、略 : 外為ブローカー)とは、為替銀行間あるいは為替銀行と顧客の間に介在して、為替取引仲介をする業者のことである。為替ブローカーとも。

旧・大蔵省銀行局通達(外国為替外貨資金仲立人協会会長あてに発出されたもの)には、「外国資金仲立業者」と表記された。

概説

外為ブローカーは、戦時中、「外国為替管理法施行規則」(1941年大蔵省令10号)[1]により許可制とされた時期[2]を除き、戦前[3]戦後を通して自由営業だった。これは自己勘定によらない単純な仲介にとどまり、受渡・決済に関与しない一方、その顧客であって為替取引の当事者となる為替銀行が法令に基づいて規制されていたためである。

外為ブローカーの業務は、(1)外国為替市場で行われる外国為替の売買取引の仲介、(2)ドル・コール市場[4]および東京オフショア市場[5][6]で行われる外貨資金の貸借取引の仲介、の2つ。うち前者(1)の売買取引は、さらに(i)直物取引(スポット取引。受渡しが当日または翌営業日に行われる)、(ii)先物取引(フォワード取引。受渡しが翌営業日の翌日以降に行われる)、(iii)スワップ取引、の3つに分けられる。

なお、1997年外為法(外国為替及び外国貿易法。翌1998年4月施行)により、外国為替業務が自由化されると、主として個人むけに、取引所FX取引や店頭FX取引を扱う業者(外国為替証拠金取引業者)が多数、現れた。

歴史

1949年外為法(外国為替及び外国貿易管理法)が成立した後、1952年6月以降、米ドルから順次、為替の全面集中制が持高集中制に改められると、為替取引が活発に行われるようになった。当初は、同じ銀行間市場で資金取引の仲介を行う短資業者が、サービス的な兼営業務として[7]、為替取引についても仲介していたが、貿易規模が拡大し、また、1956年以降、為替相場の自由化が進むと、取引量が増加し、外為ブローカーの数も増えた。短資業者にとっても、コール・手形部門収益が低下する一方で、外為部門収益は70年代に伸長して重要な収益源となった[8]

東京市場の国際化が進む一方、国内に拠点を有しない外国ブローカーのオーバーシーズ・ブローキング(国際取引)が許されておらず、また、日本側にも、情報収集や取引の効率化へのニーズがあったことから、当時の外為ブローカーの全てが外国ブローカーと資本業務提携することとなった。

直物取引を扱う外為ブローカーは、最盛期には8社(短資会社系6社、その他2社。社員数の合計で1994年に約1400人[9])を数えたが、バブル崩壊後の東京市場の地盤沈下、金融機関の合従連衡による市場参加者の減少、1992年以降の電子ブローキングの拡大などにより、主力分野の直物取引の仲介業務の商状が大幅に縮小し、各社ともリストラを余儀なくされた。その過程で、デリバティブ取引(金利オプション取引、金利スワップ取引、通貨オプション取引など)の仲介業務への転進が図られた。デリバティブ取引の分野でも外国ブローカーとの提携が行われ、国内外でブローカーの再編が進んだ結果、「ねじれ現象」(提携先が国内外で食い違うこと)が少なからず生じた。

東京市場での電子ブローキングは、1992年4月に英ロイター、翌1993年11月にEBS(エレクトロニック・ブローキング・サービス。欧米主要行が出資)がそれぞれサービスを開始。仲介手数料が割安で、与信管理が容易になることから、わずか4年間で5割以上のシェアを確保[10]。国内勢では1993年4月にマイネックス(トウキョウフォレックスがKDDIなどと1991年3月設立)が参入し、1995年8月に単月で黒字化、10月に円・ドル直物取引でシェア首位となったが、他通貨で苦戦が続き、翌1996年3月、競合相手のEBSに営業譲渡した。

個別業者

外為ブローカーは、外国為替の売買取引のほか、外貨資金の貸借取引の仲介を行っており、後者について、金融庁長官から「短資業者」の指定を受けて、貸金業法の適用を除外されている。これまでに指定を受けた外為ブローカーは、次のとおり。カッコ内は指定を受けていた期間で、営業期間と必ずしも一致しない。

  • ハトリ・マーシャル(1983年10月から2000年3月まで)。1956年3月設立。当初、羽鳥商会として指定されるも、1984年11月、英MWマーシャルと資本提携して社名を変更。1993年8月、「7社目の短資会社」として、無担保コール(先日付取引)の仲介業務に参入。1999年3月、日短エクスコ(現在の日短キャピタルグループ)に買収された。
  • コバヤシ(1983年10月から2000年3月まで)。1975年設立。1984年11月、英RPマーチン社(後のマーチン・ビアバム)と資本提携。1995年5月、直物取引の仲介業務から撤退。同年9月、英社がアジア市場から撤退した。1996年4月、社名を「マーティンブローカーズ」に変更し、1997年1月に資本関係を解消するも、新たな提携先が見つからず、1998年3月、会社を解散。
  • トウキョウフォレックス(1983年10月から2000年3月まで)。1978年12月設立。東京短資が外国部を分社化。1983年に英タレット・アンド・ライリーと業務提携し、これに資本参加していたが、2003年に持ち分を英コリンズ・ステュアートに売却。2000年3月、社名を「東短デリバティブス」に変更。現社名は「東短エイジェンシー」。
  • エム・ダブリュー・マーシャルアンドカンパニーリミテッド(1983年10月から1985年4月まで)。英国法人の東京支店。英マーシャルは1981年4月に南商店を買収して東京市場に参入。その後、羽鳥商会と提携し、同社に資本参加。
  • 日短エーピー(1983年10月から2000年3月まで)。1983年設立。日本割引短資(当時)と英アストレー・アンド・ピアスとの合弁会社。英社は1978年4月に東京支店を開設していた(10月営業開始)が、その営業を承継。日本短資が1996年に英マーシャルとも提携したため、社名を「日短エクスコ」に変更。1998年、直物取引の仲介業務を「日短エフエックス」として分社化し、2000年に社名を「日短キャピタルグループ」に変更。
  • メイタン・トラディション(1985年9月から)。1985年8月設立。名古屋短資(当時)とトラディション(スイス)の合弁会社。1997年以降、スイス社主導の経営が行われ、リストラを進める同業他社からの人材採用や円金利スワップ取引への注力により業容を拡大。2014年4月、スイス社の完全子会社となり、2017年4月、社名を「トラディション日本」に変更。
  • 上田ハーロー(1985年10月から2000年3月まで)。1984年設立。上田短資(当時)と英MAI(ミルズ・アンド・アレン・インターナショナル)社の合弁会社。後に上田短資が完全子会社化。ブローカーが円卓を囲んで取引仲介する丸テーブル方式で知られた。為替ブローカー業務の移管後の2003年4月、FXCMジャパン(当時)に出資し、さらに2005年以降は自社にて外国為替証拠金取引を手掛け、2010年には三菱商事フューチャーズの同事業を承継するも、2021年4月に外為ドットコムに買収され、同年10月、吸収合併された。
  • 八木ユーロ(1988年10月から2000年3月まで)。1988年6月設立。八木短資(当時)と米ユーロブローカーズ・インベストメントの合弁会社。1998年、「日短八木ユーロ」に為替ブローカー業務を移管した後、社名を「八木ユーロ・ニッタン」に変更。さらに親会社の合併により2001年12月、社名を「上田八木コーポレーション」に変更、2019年9月、貸金業登録。
  • 山根プレボン(1993年5月から2014年7月まで)。山根短資と英プレボンの合弁会社。もともと山根短資はチャールスフルトン(香港)に資本参加していた。1998年8月、直物取引の仲介業務から撤退。社名を「山根タレットプレボン」に変更。
  • トウキョウフォレックス上田ハーロー(2000年3月から)。1999年10月設立。東京短資と上田短資の合弁会社。両社が子会社(トウキョウフォレックス、上田ハーロー)で行っていた為替ブローカー業務を集約。2019年10月、社名を「上田東短フォレックス」に変更。
  • 日短八木ユーロ(2000年3月から)。1999年設立。日本短資と八木短資の合弁会社。両社が子会社(日短エクスコ、八木ユーロ)で行っていた先物取引と資金貸借取引の仲介業務を集約。2001年、日本短資の完全子会社となり、社名を「日短マネーマーケッツ」に変更。

1988年金融先物取引法(翌1989年3月施行)により、1989年4月にTIFFE東京金融先物取引所(現TFX東京金融取引所)が開設されたが、短資業者、外為ブローカーとも、業法に基づく金融機関でなく、また、日銀が金融調節として行うオペレーション(公開市場操作)の窓口であって、金融政策を比較的早く知る立場にあるという理由から、自己勘定での取引は認められず、取次専門の会員として加入した。また、純資産額要件のほか、「短資会社は系列の外為ブローカーを持っている場合は重複して会員になることを認めず、どちらかを選択すること」という条件が付された結果、当初加入したのは5社(トウキョウフォレックス、ハトリ・マーシャル、上田短資、日本短資、山根短資)となった。

脚注

注釈

  1. ^ 85条「①業として外国為替取引の媒介を為さんとする者は大蔵大臣の許可を受くべし。②本令施行の際業として外国為替取引の媒介を為し居れる者引続き其の業務を営まんとするときは昭和16年4月30日迄に大蔵大臣の許可を受くべし。③第1項又は前項の規定に依り許可を受けたる者を為替ブローカーと謂い其の業務を廃止せんとするときは豫め大蔵大臣に届出つべし」
  2. ^ 野田卯一『改正外国為替管理法令に就て』東京銀行集会所、1941年。「是は新しく為替ブローカーと云うものを取締りの対象と致したのでありますが、為替銀行等に出入して色々と為替業務にタッチする者でありますので、従来は放任してあったのでありますが、矢張り一応の取締りをするのを適当と認めまして、新しく斯う云う規定を設けたのであります。最近の情勢では為替銀行間に色々と為替相場の協定が出来まして、それが非常によく行はれて居る。又日本銀行の余裕資金集中制と云ったやうなものが働くと云ふ色々な関係から致しまして、為替ブローカーの働く余地と云ふものは極く限られて来まして、人に依っては為替ブローカーは今日存在の必要がないと云ふやうな意見を述べて居る向もございます。実際見ましても甚だ其の活動の範圍は狭められて居るように見受けられるのであります」 
  3. ^ 戦前の為替ブローカーは、例えば「…東京外国為替仲買業組合を組織して、為替銀行を営む各銀行の援助の下に、相互の親睦、利益の増進に勉め、且つ取引の円満向上を図って居る。組合員と云うのは14名で、▷エルケット・アンド・ゲルツ商店▷行徳元▷木村為替店▷南金太郎▷岡田為替店▷多福商店▷渡辺胖▷早坂喜一郎▷藤本ビルブローカー▷西貝為替店▷田中貞太郎▷竹村利三郎▷山口元治郎▷湊永田商店の諸店であるが、然し組合員の中には今は全く死火山の様に終そくして、車も飛ばさず、為替の仲立に就ては何も仕事をして居ないと云ってよい程の、藤本ビルブローカーがある」(国民新聞経済部「街頭経済」民友社、1928年)など。
  4. ^ 1971年8月、米ニクソン大統領が「新経済政策」により、金ドル交換停止を軸とするドル防衛措置を採ることを発表すると、ドルが暴落し(いわゆるニクソン・ショック)、欧州各国が為替市場を閉鎖したのに続き、日本も一連の為替管理強化措置を講じた。その後、同年12月のスミソニアン合意により、多角的通貨調整が決着をみて、通貨不安が終止符を打ったことから、規制を緩和したところ、円相場が急騰したため、翌1972年2月に為替管理の再強化を余儀なくされた。これについて民間から強い批判が出たため、大蔵省は同年4月、居住者間外貨貸付を包括許可することにより「ドル・コール市場」を創設して、為替銀行に外貨の短期貸借取引の場を提供した。このとき同時に、全面集中制から持高集中制に改められながら長く続いた「外貨集中制度」が廃止された。
  5. ^ 1970年代後半から「円の国際化」が検討され、1980年代後半に金融・資本市場の自由化や国際化が進められた。1984年5月に、日米財務当局者からなる金融・資本市場問題特別会合から「日米円ドル委員会作業部会報告書」が、大蔵省から「金融の自由化及び円の国際化についての現状と展望」が同時に発表されたが、これら2件の報告書において、公式文書として初めて、オフショア市場の創設が謳われた。1986年3月に租税特別措置法が、5月に外国為替及び外国貿易管理法がそれぞれ改正されて、「特別国際金融取引勘定」(外国為替公認銀行が、非居住者との間で行う一定の取引に関する経理をその他の取引に関する経理と区分して整理するため大蔵大臣の承認を受けて設ける勘定。いわゆるオフショア勘定)が設けられ、同年12月に「東京オフショア市場」での取引が開始された。
  6. ^ そもそも「オフショア取引」とは、そこでの取引を国内のほかの金融取引とは遮断した上で、金融・税制上の特例措置を講じ、ユーロ市場におけると同様に、国際金融センターとして自由な取引を行う、というもの…。大蔵大臣の承認を得てオフショア勘定を設けた外為銀行が外国から調達した資金を外国へ運用する、いわゆる外-外取引を原則とし、外為銀行はこの勘定を通じて非居住者(外国法人、外国政府、国際機関、外為銀行の海外支店)等との間で預金、貸付等のオフショア取引を行うこととされた。ユーロ取引と同様、この市場を金融・税制上の制約の少ない市場とするため、そこでの取引を国内金融市場とは遮断した上で、金利規制、預金保険、準備預金の対象外とするとともに、非居住者に帰属する利子について源泉所得税及び法人税を非課税とした。(「昭和財政史-昭和49~63年度」7巻)
  7. ^ 日銀調査局「わが国の金融制度」1962年
  8. ^ 「オープン市場への進出強める短資会社」金融ジャーナル1982年6月号
  9. ^ 「存立の波 東京ブローカー(上)デリバティブに活路」日経金融新聞1998年10月30日
  10. ^ 「外為取引に電子化の波 手数料の安さ魅力」日本経済新聞1996年6月26日夕刊

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