坪倉鹿太郎とは? わかりやすく解説

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坪倉鹿太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/15 06:19 UTC 版)

坪倉鹿太郎
坪倉鹿太郎の伝記『一畳亭米山』

坪倉 鹿太郎(つぼくら ろくたろう、1856年安政3年) - 1921年大正10年))は、鳥取県日野郡の郷土史家で地方史編纂の先駆者。『凶年の後悔』『日野山桜』『日野郡野史』などの著書を残した。

米山(べいざん)、平六(へいろく)、「一畳亭」(いちじょうてい)とも号したが、いずれの文字も左右均整となっており、それは坪倉鹿太郎の几帳面な性格の表れだったという[1]

「つぼくら しかたろう」と紹介している文献もあるが、これは誤りである。本人が1920年(大正9年)に作成した書類に捺印があり、印には平仮名で「ろくたろう」と刻まれている[2]

生涯

1856年(安政3年)7月28日、鳥取県日野郡佐木谷村(現・日南町佐木谷)の農家に生まれる。坪倉家は尼子家臣の流れを汲むとされ、村役人などを務める家系であった。幼い頃から文学を好み、十代半ばで隣村である茶屋村(現・日南町茶屋)の吏員となった。

農業や造林の知識があったことから、その後、二部村にあった日野郡役所で郡書記として勤務した[3]。内閣官報局編集・発行の『職員録』(乙)にも、1894年(明治27年)から1900年(明治33年)にかけて、日野郡役所の郡書記として「坪倉鹿太郎」の名前が掲載されている[4][5]

1898年(明治31年)には、岡島正潔の命を受け、奈良県吉野地方の林業の現地調査を行い、林業経営について研究を行った[6]

一方で、日野郡の歴史に関心を持ち、調べたことを書き留め、また、古文書を写し、伝説を記録にとどめていった。日野郡役所を辞した後、これらを書籍にまとめ、郡内に無償で配布していた。

日野郡役所は1912年(明治45年)に郡史編纂事業に着手しており、1913年(大正2年)1月、日野郡長の井上廉治は坪倉を郡史調査委員に任命する。翌年3月、当時の入江澄郡長は「事業の進捗遅々たるを遺憾となし」坪倉を解嘱する[7]。任を解かれた後も、坪倉は郡史に関する調査・史料の収集を進め、1917年(大正6年)11月に『日野郡野史』を完成させ、郡役所に献納した。

和歌を好み、生涯に1万7千もの歌を詠んだ[8]。『日野郡史』にも「日野路案内」として、郡内の村ごとに、村名や神社名、風物等を詠み込んだ坪倉の和歌が紹介されている[9]

1921年(大正10年)3月31日に66歳で死去した。

『日野郡野史』の編纂

郷土史家としての最大の功績は『日野郡野史』の編纂である。郡史調査委員の任を解かれた後、『野史』の編纂を勧めたのは、後に郡史の編纂委員に任ぜられた同郷の内藤岩雄[10]である[11]。これは、幕末の国学者・歴史家、飯田忠彦の『大日本野史』に想を得たものであった[1]

編纂に足かけ4年をかけた『日野郡野史』は、編年体の史料35巻及び付録1巻の計36巻(1,443枚)からなり、日野郡役所に献納された。『日野郡野史』の完成に際し、坪倉は以下の和歌を残している。

あらうれし 苔の下にて われ聞かむ この書よみて 笑う人声[8]


『日野郡野史』は『日野郡史』(1926年刊行)でも多く引用されており、当時でも貴重な資料であったことがうかがえる。しかし、『日野郡史』編纂に活用された後、所在不明となった。

2013年に日南町内で『日野郡野史』の「巻之六 神社」が発見された。手稿本であり、日野郡役所に献納されたものの一部であるかは不明だが、『日野郡野史』が実在したことを示す唯一の資料である[12]

農事改良への貢献

農事改良に強い関心を持ち、1885年(明治18年)には『農業雑誌』への投稿を始め、その後は博覧会等への出品も行った。1888年(明治21年)の官報には、自作の稲種『スグバリ』が宮城県本吉郡で試植されたという記事が掲載されている。

 宮城県本吉郡における稲種『スグバリ』の試植[13]
「凶荒豫備稻を栽植すべき說」-『農業雑誌』第231号掲載[14]
「樹木栽培の勸め」-『農業雑誌』第235号掲載[15]
「米㨶法の改良を望む」-『農業雑誌』第237号掲載[16]
「肥料堆積法」-『農業雑誌』第240号掲載[17]
「水苗代の良肥料」-『農業雑誌』第269号掲載[18]
「(蠅を駆除する蠅茸)」-『農業雑誌』第270号掲載[19]
「アヲミドロを除く法」-『農業雑誌』第272号掲載[20]
「撰種の利」-『農業雑誌』第275号掲載[21]
「勧農茶談」-『農業雑誌』第276号掲載[22]
「(稲種精撰法)」-『農業雑誌』第278号掲載[23]
「(栗の保存に関する質問)」-『農業雑誌』第278号掲載[24]
「勸農茶談(續)」-『農業雑誌』第278号掲載[25]
「勸農茶談(前号の続き)」-『農業雑誌』第279号掲載[26]
「勸農茶談(前々号の続き)」-『農業雑誌』第281号掲載[27]
「杉繪苗害虫に付質問」-『大日本山林会報』第159号掲載[28]
「林地に植点を定むる簡便法」-『大日本山林会報』第210号掲載[29]
「鳥取県日野郡造林の実況」-『大日本山林会報』第227号掲載[30]
 第二回水産博覧会への「ノブ皮[31]」出品[32]
「犬黄楊棘小楊枝」-農業館列品[33]

著作

『日野郡野史』
『日野郡山桜』
坪倉鹿太郎 (米山) 著『日野山桜』,坪倉米山,明43.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/766288
『日野義民伝野田三社巴形』(浄瑠璃)
『凶年の後悔』
坪倉鹿太郎 著『凶年の後悔』,坪倉鹿太郎,明25.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/838266
『造林の勤め』
『牛馬古老譚』

逸話

日野郡根雨村(現・日野町根雨)の実業家、近藤寿一郎[34](1880年 - 1958年)は、坪倉鹿太郎が坪内逍遙の『小説神髄』を蔵書していることに驚いたというエピソードを紹介している[35]。近藤の青年時代には、同書はすでに絶版となっており、すぐに借りて読んだという。近藤は、坪倉について「明治維新の新文運を築き上げるには、山の中の僻村にも当時既に斯る理解ある先覚者があった事が、大なる力であった」と述べている。

坪倉は、独特の葬式方法を実践していた。道具一切を自分で整え、五色の旗やチャルメララッパ、白い肩衣に白鉢巻きという出で立ちであっため、吹き出す会葬者もいた[1]。『日野郡史』でも、坪倉の人となりについて「奇行多し」と紹介されている[8]

脚注

  1. ^ a b c 板 愈良 1929, p. (憶 一畳亭主人).
  2. ^ 谷口房男 2017, p. 108.
  3. ^ 日野郡史(下巻) 1926, p. 1956.
  4. ^ 『職員録』明治27年現在(乙),印刷局,明治27. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/779768
  5. ^ 『職員録』明治33年現在(乙),印刷局,明治33. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/779779
  6. ^ 日野郡史(下巻) 1926, p. 2372.
  7. ^ 日野郡史(上巻) 1926, p. 6.
  8. ^ a b c 日野郡史(下巻) 1926, p. 1957.
  9. ^ 日野郡史(上巻) 1926, p. 16.
  10. ^ 内藤岩雄 - とっとりデジタルコレクション
  11. ^ 内藤は坪倉との関係について「同じひの川の高原に生命を受けたといふ外に、七重八重の内面的な縁(えにし)がまつはつてゐる」と述べている(板 愈良 1929, p.(憶 一畳亭主人)
  12. ^ 谷口房男 2017, p. 79.
  13. ^ 大蔵省印刷局 [編]『官報』p5,1888年03月13日. https://dl.ndl.go.jp/pid/2944645
  14. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』(231),p286~287,学農社,1885-12. https://dl.ndl.go.jp/pid/1597991
  15. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』11(2)(235),p26~26,学農社,1886-07. https://dl.ndl.go.jp/pid/1597993
  16. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』11(4)(237),p57~58,学農社,1886-08. https://dl.ndl.go.jp/pid/1597994
  17. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』11(7)(240),p105~106,学農社,1886-09. https://dl.ndl.go.jp/pid/1597996
  18. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(18)(269),p280,学農社,1887-06. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598025
  19. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(19)(270),p299,学農社,1887-07. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598026
  20. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(21)(272),p333,学農社,1887-07. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598028
  21. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(24)(275),p377~378,学農社,1887-08. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598030
  22. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(25)(276),p393~394,学農社,1887-09. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598031
  23. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(27)(278),p429,学農社,1887-09. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598033
  24. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(27)(278),p429,学農社,1887-09. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598033
  25. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(27)(278),p425,学農社,1887-09. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598033
  26. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(28)(279),p441,学農社,1887-10. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598034
  27. ^ 学農社 [編]『農業雑誌』12(30)(281),p472,学農社,1887-10. https://dl.ndl.go.jp/pid/1598036
  28. ^ 『大日本山林会報』(159),p43,大日本山林会事務所,1896-03. https://dl.ndl.go.jp/pid/2370173
  29. ^ 『大日本山林会報』(210),p15-16,大日本山林会事務所,1900-06. https://dl.ndl.go.jp/pid/2370224
  30. ^ 『大日本山林会報』(227),p41-42,大日本山林会事務所,1901-11. https://dl.ndl.go.jp/pid/2370241
  31. ^ ノグルミ(ノブノキ)の皮で染料として用いられた。『自然科学と博物館』18(4),p106,国立科学博物館,1951-04. https://dl.ndl.go.jp/pid/2376801
  32. ^ 『第二回水産博覧会出品目録』第二回水産博覧会事務局,p94,明30.9. https://dl.ndl.go.jp/pid/842677
  33. ^ 神苑會清算人 編輯『農業館列品目録』,p399,神苑會清算人,1911. https://dl.ndl.go.jp/pid/1083051
  34. ^ 近藤寿一郎 - とっとりデジタルコレクション
  35. ^ 板 愈良 1929, p. (序).

参考文献




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