坂東蓑助 (5代目)とは? わかりやすく解説

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坂東蓑助 (5代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/07 14:09 UTC 版)

ごだいめ ばんどう みのすけ
五代目 坂東蓑助

生年月日 1865年1月11日
没年月日 (1910-09-10) 1910年9月10日(45歳没)
本名 林鉄三郎
襲名歴 坂東利喜松 → 五代目 坂東蓑助
出身地 三河国碧海郡池鯉鮒宿
十二代目守田勘彌(養父)

五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年1月11日元治元年12月14日〉 - 1910年〈明治43年〉9月10日)は、日本歌舞伎役者。養父は十二代目守田勘彌

経歴

出生

元治元年12月14日(1865年1月11日)[1]三河国東海道にある池鯉鮒宿の旅籠、巴屋こと林寅吉[1]の次男として生まれた[2][3]。本名は鉄三郎[2][3]。母は碧海郡東境村泉正寺の生まれである[2][3]

歌舞伎役者として

十二代目守田勘彌

理由は定かでないが、母親とともに巴屋を出て旅役者となり、女優の中村仲吉に預けられた[1]。10歳の時に東京に向かい、坂東喜知六を頼って坂東利喜松(りきまつ)と名乗った[1]。新富座で踏んだ初舞台が認められて坂東喜知六の養子となった[1]

1889年(明治22年)に京都の祇園座がこけら落としを行った際、九代目市川團十郎一座に招かれて出演し、非凡な才能を見せつけた[3]十二代目守田勘彌に見初められ、25歳の時に[1]五代目坂東蓑助を襲名した[2][3]。1897年(明治30年)に十二代目守田勘彌が急死した後には不遇をかこった[3]

故郷凱旋と死去

凱旋した東雲座

1909年(明治42年)8月には郷土の碧海郡知立町にある東雲座(後の知立劇場)の公演に出演した[2]。「郷土のうんだ名優蓑助きたる」などとして大変な騒ぎになったとされる[1]。9月には碧海郡刈谷町の大生座(たいせいざ)の公演に出演したが、持病のリウマチが悪化して入院した[1]。9月10日には心臓麻痺を併発して死去した[1]

養嗣子には刈谷市文化財保護委員を務めた佐藤峻吉がいる[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 『知立のあゆみ』知立町、1966年、p.69
  2. ^ a b c d e 『写真集 明治大正昭和 知立』国書刊行会、1980年
  3. ^ a b c d e f g 野村泰三『知立の文化財と史跡』知立市文化協会、1990年、pp.118-119

参考文献

  • 『知立のあゆみ』知立町、1966年
  • 野村泰三『知立の文化財と史跡』知立市文化協会、1990年



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