周娥皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 15:22 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| 周皇后 | |
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| 南唐の国后 | |
| 在位 | 建隆2年7月29日 - 乾徳3年11月2日 (961年9月11日 - 964年12月8日) | 
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| 全名 | 周娥皇 | 
| 別称 | 昭恵后 | 
| 出生 | 天祚2年(936年) | 
| 死去 | 乾徳3年11月2日 (964年12月8日) | 
| 埋葬 | 懿陵 | 
| 配偶者 | 後主 | 
| 父親 | 周宗 | 
| 妹 | 小周后 | 
| 子女 | 李仲寓 李仲宣 高陽公主 | 
周 娥皇(しゅう がこう、936年 - 964年)は、南唐の李煜の最初の后。司徒周宗の長女。妹の小周后と区別するため大周后と呼んでいる。
生涯
妹とともに国中で一番の美人姉妹として有名だった。聡明で才知があり、史書を通じた、また鳳蕭と琵琶を初めとした音楽の才能にも優れていた。
建隆2年(961年)に皇后に立てられた。李煜は娥皇を非常に寵愛し、彼女の美貌を「煙軽麗服,雪瑩修容。繊眉范月,高髻凌風」と記したという。李煜との間に李仲寓・李仲宣・高陽公主を出産した。
しかし、次男の李仲宣は早世した。娥皇は悲しみ、自身も病気になった。重態に陥った時、宮中で妹の姿を見つけ「いつ来ましたか?」と問われたため、それに対し妹は「数日前に来たのです」と答えた。そのことから夫と妹の密通を悟り、怨恨を抱くようになり、体調を崩して死去となっている。昭恵と諡し、懿陵に葬られた。
李煜は娥皇の死を深く悲しみ、『衣昭恵周后誄』など詩数首を作り、哀悼の意を表した。
登場作品
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