千堂陸軍墓地とは? わかりやすく解説

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千堂陸軍墓地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 21:15 UTC 版)

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千堂陸軍墓地
詳細
所在地
福岡県北九州市小倉北区新高田1丁目1番1号
日本
種別 旧陸軍軍人
総面積 3852坪(敗戦直後)
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千堂陸軍墓地(せんどうりくぐんぼち)は、北九州市小倉北区にあった旧大日本帝国陸軍墓地である。

概要

  • 企救郡篠崎村字千堂山(現在の北九州市小倉北区新高田)に設けられた旧陸軍墓地
  • 日露戦争で戦死した小倉第12師団など明治以降の戦没者が埋葬されていた[1]が、1942年に平和公園(小倉陸軍墓地)に移設された(遺骨は遺族に返されている[2])。
  • 跡地には、1954年に北九州市立南小倉小学校が建てられており、一部史跡が現存している。

関連史跡

  • 常陸丸記念碑
    • 常陸丸事件を慰霊するため、1905年(明治38年)11月、小倉第12師団の人たちや街の人たちがお金を出し合ったもの[3]。南小倉小学校敷地内にある。遺族の立てたものは、東京、現在の靖国神社内にある。
  • ロシア兵の墓石2基
    • 陸軍墓地が移設された後も日露戦争のときに捕虜になったロシア人兵の墓石が残されていたが、鉄道破産で向かいにある普門寺(福岡県北九州市小倉北区木町3-16-3)に移された。当時の住職によると「小学校開校時、現在の運動場の片隅に、ロシア人の基石が放置されていたものを学校側より相談を受け寺に移し無縁墓と一緒に寄せ基としてまとめた」[4]とのこと。その後、現住職により、納骨堂に収められている[5]

脚注

  1. ^ 小倉と日露戦争 - 北九州市”. www.city.kitakyushu.lg.jp. 2020年9月1日閲覧。
  2. ^ 山辺昌彦「[調査研究活動報告 全国陸海軍墓地一覧(1. 陸海軍墓地)]」『国立歴史民俗博物館研究報告』第102巻、国立歴史民俗博物館、2003年3月、 696-611頁、 doi:10.15024/00001085ISSN 0286-7400NAID 120005748310
  3. ^ 小倉と日露戦争 - 北九州市”. www.city.kitakyushu.lg.jp. 2020年9月1日閲覧。
  4. ^ 地方史ふくおか 第115号”. 2020年9月1日閲覧。
  5. ^ ですかばあ北九州 石碑は語る. 櫻の森通信社. (2017年10月) 

参照

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