久保寺_(岡谷市)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 久保寺_(岡谷市)の意味・解説 

久保寺 (岡谷市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/30 07:28 UTC 版)

久保寺
所在地 長野県岡谷市湊2-14-6
山号 霊湊多聞山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦如来
創建年 1277年
開山 蘭渓道隆(大覚禅師)
開基 諏訪大和守甫良(はるなが)
札所等 諏訪三十三ヶ所観音霊場
テンプレートを表示

久保寺(きゅうほうじ)は長野県岡谷市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は霊湊多聞山。

歴史

中国 からの渡来僧 大覚禅師(1215~1278)は1246年に来日。北条時頼の帰依を受け、1253年、時頼が鎌倉建長寺を創建するや、乞われて開山第1祖となった僧である。後に京都建仁寺に迎えられ、再び時頼に招かれ鎌倉禅興寺に入り、また各地の幾多の寺の開山を担った。 南箕輪村の久保寺開山は大覚禅師遷化前年に行ったとされる(1277)。開基は伊那源氏の支流 諏訪大和守甫良(はるなが)とされ、寺号を地名からとり、久保庵とした。南箕輪村久保地区は、古来『供奉(くぶ)』後に『窪村』1704年~『久保村』となった。 1556年、諏訪久保(諏訪大和守甫良の18代子孫)が鎌倉建長寺の覚源恵了を迎え、中興開山。1692年、妙心寺派に属して久保寺を名乗る。 しかし、江戸時代以降、飯田城主 小笠原秀政の領地になったり、天領、私領と支配が頻繁に替わり援助者もなく、寺領乏しい貧しい寺となり幕末を迎えた。明治初期に火災で全焼後は、小堂再建して尼僧が住したが、その後無住が続き廃寺同様の状態となってしまっていた。 1922年、岡谷市湊での諏訪江音寺檀家分裂問題から、新寺創建計画が起こった。計画難航の中、長野県より箕輪久保寺の移転招致の助言を受けた湊の檀家が、箕輪久保寺の地元に交渉し、1924年に現在地(岡谷市湊)に本堂を建立、新天地での久保寺の再中興となった。 参道石段(1930)、梵鐘,山門(1962)、墓地公園(1979)と整備され、地元の寺として定着している。

出典

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  久保寺_(岡谷市)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「久保寺_(岡谷市)」の関連用語

久保寺_(岡谷市)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



久保寺_(岡谷市)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの久保寺 (岡谷市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS