中山信昌とは? わかりやすく解説

中山信昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 10:27 UTC 版)

中山 信昌(なかやま のぶまさ、元禄12年(1699年)- 寛保3年7月8日1743年8月27日))は、常陸太田藩の第3代当主。水戸藩附家老・中山家8代。

大身旗本(4200石、御先弓頭)・堀田一幸の四男。母は大田原政清の娘。正室は中山信成の娘。子は中山信錦(長男)、中山政信(三男)、中山常信(四男)、中山篤信(五男)、娘(中山直秀正室のち大久保忠肥継々室)、娘(鈴木直賢室)、娘(竹中元長室のち須田盛庸室)、娘(筑紫安門継室のち須田盛庸室)。官位は従五位下、備前守。通称は内記。

正徳2年(1712年)1月、先代・中山信順が早世したため養子となって同年5月家督を相続した。他家養子のため5000石の減封となった[1]。正徳3年(1713年)12月11日、従五位下・備前守に叙任。寛保3年(1743年)に45歳で没し、跡を三男の政信が継いだ。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。

水戸藩が宝永の改革に失敗し、4代藩主宗堯が短い期間の統治の後に没し、5代藩主宗翰が幼少(3歳)で水戸藩を継承した時には、藩政の主導権を掌握して減封した5000石も寛保2年(1742年)1月に加増した。8代将軍吉宗に他の水戸家家臣とともに呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。

系譜

父母

正室

子女

  • 中山信錦(長男)
  • 中山政信(三男) 生母は正室
  • 中山常信(四男)
  • 中山篤信(五男)
  • 中山直秀正室、後に大久保忠肥継々室
  • 鈴木直賢室
  • 竹中元長室、後に須田盛庸室
  • 筑紫安門継室、後に須田盛庸室

血筋

附家老中山家の家祖中山信吉の兄中山照守の血を引く[2]

  • 中山照守―大野三八某妻―堀田一純室―堀田一幸―中山信昌

脚注

  1. ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X
  2. ^ 寛政重修諸家譜』に一部基づく。




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中山信昌」の関連用語

中山信昌のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中山信昌のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中山信昌 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS