ヴワディスワフ1世 (オシフィエンチム公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 15:28 UTC 版)
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ヴワディスワフ1世 Władysław I Oświęcimski |
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オシフィエンチム公 | |
ヴワディスワフの印璽、1317年
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在位 | 1315年 - 1324年 |
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出生 | 1275/80年 |
死去 | 1324年5月15日 |
埋葬 | オシフィエンチム、ドミニコ会修道院 |
配偶者 | エウフロジナ・マゾヴィエツカ |
子女 | ヤン1世 アンナ |
家名 | シロンスク・ピャスト家 |
父親 | チェシン公ミェシュコ1世 |
母親 | グジミスワヴァ |
ヴワディスワフ1世(Władysław I Oświęcimski、1275年/1280年 - 1324年5月15日)は、オシフィエンチム公(在位:1315年 - 1324年)。チェシン公ミェシュコ1世の長男。
1290年、父ミェシュコ1世がチェシン公国の単独統治者となって間もなく、ヴワディスワフ1世は父の共同統治者とされた。1315年にミェシュコ1世が死ぬと、ヴワディスワフ1世は首都チェシンを相続せず、より重要性の低いオシフィエンチムを領有した。このことは後に弟カジミェシュ1世との政治的紛争の原因となり、ヴワディスワフ1世は弟との争いを有利に進めるため、同名のポーランド国王であるヴワディスワフ1世(短躯王)の同盟者に加わることになった。ヴワディスワフ1世の死亡時期ははっきりしないが、1321年から1324年の間だったといわれる。遺体はオシフィエンチムのドミニコ会修道院に埋葬された。
子女
1304年までにプウォツク公ボレスワフ2世の娘エウフロジナ(1292年頃 - 1328年/1329年12月26日)と結婚し、2人の子供をもうけた。
- ヤン1世(1308年/1310年 - 1372年9月29日)
- アンナ(1354年9月19日没) - アラド、バーチ、セレームの郡代セーチェーニ・タマーシュと結婚
先代: 新設 |
オシフィエンチム公 1315年 - 1324年 |
次代: ヤン1世スホラスティク |
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