ワレラン3世・ド・リュクサンブール (リニー伯)とは? わかりやすく解説

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ワレラン3世・ド・リュクサンブール (リニー伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/01 14:46 UTC 版)

ワレラン3世・ド・リュクサンブール
Waléran III de Luxembourg
サン=ポル伯
リニー伯
ワレラン3世とモード・ホランドの婚礼
在位 1371年 - 1415年

出生 1357年
サン=ポル=シュル=テルノワーズ英語版
死去 1415年4月15日
カリニョン英語版、イヴォワ城
配偶者 モード・ホランド
  ボンヌ・ド・バル
子女 ジャンヌ
家名 ルクセンブルク=リニー家
父親 サン=ポル伯・リニー伯ギー
母親 マオー・ド・シャティヨン
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ワレラン3世・ド・リュクサンブール(Waléran III de Luxembourg(-Ligny)、1357年頃 - 1415年4月15日)は、フランスの貴族、軍人。サン=ポル伯、リニー伯、ルシー英語版およびボールヴォワール英語版の領主(1371年 - 1415年)。サン=ポル伯およびリニー伯ギーとその妻マオー・ド・シャティヨンの間の長男。

生涯

父の戦死後、フランス王シャルル5世に仕えて百年戦争に従軍したが、敵のイングランド軍の捕虜となって渡英した。虜囚中の1380年、初代ケント伯爵トマス・ホランドジョーン・オブ・ケントの間の次女モード・ホランド(1392年没)とウィンザーにおいて結婚した。モードはイングランド王リチャード2世の異父姉にあたる。伯爵夫妻の一人娘ジャンヌ(1407年没)は、ブラバント公アントワーヌと結婚した。モードと死別後、ワレランは1393年にバル公ロベール1世の娘ボンヌ(1400年没)と再婚したが、間に子供は授からなかった。

1396年、シャルル6世に王女イザベルと義理の弟のイングランド王リチャード2世の結婚交渉を命じられた。その功績によりジェノヴァ総督に任命されている。やがてシャルル6世が精神を病むと、ワレランはブルゴーニュ公ジャン・サン・プールの忠実な支持者となった。1402年に水利・林業長官(Grand Maître des eaux et forêts)に、1410年にパリ軍事総督および王の酒杯係(Bouteillier de France)に、さらに1412年にはフランス軍総司令官英語版に任命された。彼はパリで民兵部隊を組織し、ノルマンディーアルマニャック派の軍勢と戦った。1413年、ワレランらのブルゴーニュ派はパリからの退却を余儀なくされた。

ワレランはその後まもなく死去し、サン=ポル伯領およびリニー伯領は外孫のフィリップ・ド・サン=ポルが相続した。

子女

最初の妻モード・ホランドとの間に娘を1人もうけた。

また、2人の庶子をもうけた。

  • ジャン(1466年没) - オーブールダン領主
  • シモン(生没年不明)

参考文献

先代
ギー
サン=ポル伯
リニー伯
1371年 - 1415年
次代
フィリップ



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