ロマン・ウラジミロヴィチ_(ヴォルィーニ公)とは? わかりやすく解説

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ロマン・ウラジミロヴィチ (ヴォルィーニ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/19 02:24 UTC 版)

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ロマン・ウラジミロヴィチ
Роман Володимирович
ヴォルィーニ公
在位 1117年 - 1119年

死去 1119年1月6日
配偶者 ペレムィシュリ公ヴォロダリの娘
家名 リューリク家
父親 キエフ大公ウラジーミル2世モノマフ
母親 エフィミヤ
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ロマン・ウラジミロヴィチウクライナ語: Роман Володимирович、? - 1119年1月6日)は、キエフ大公ウラジーミル・モノマフとその二度目の妻との間の子である。ヴォルィーニ公(在位:1118年 - 1119年)。

生涯

1117年、父のモノマフと、スヴャトポルクの子でヴォルィーニ公の座にあったヤロスラフとの間で紛争が発生した。その原因は、モノマフが息子のムスチスラフノヴゴロドからキエフ近郊のベルゴロドへ転置したことで、ヤロスラフが自身のキエフ大公継承権に危機感を覚えたためと考えられる。1118年、モノマフはガーリチ・ロスチスラフ家(ru)と連合し、ヤロスラフをウラジーミル・ヴォリンスキーヴォルィーニ公国の首都)から追放し、ロマンをヴォルィーニ公に据えた。しかしロマンはその翌年に死去し、ロマンの兄弟のアンドレイが、モノマフのナメストニク(代官)としてヴォルィーニ公に据えられた。

ロマンは1114年9月11日にペレムィシュリ公ヴォロダリの娘と結婚したが、その子孫に関する史料はない。

出典

先代:
ヤロスラフ
ヴォルィーニ公
1118年 - 1119年
次代:
アンドレイ



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