レニエ5世 (エノー伯)とは? わかりやすく解説

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レニエ5世 (エノー伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/29 06:55 UTC 版)

レニエ5世
Régnier V
モンス伯
在位 1013年 - 1039年

出生 995年ごろ
死去 1039年以降
配偶者 マティルデ・フォン・フェアドゥン
子女 エルマンまたはリシルド
家名 レニエ家
父親 エノー伯レニエ4世
母親 エドヴィジュ・ド・フランス
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レニエ5世(Régnier V, 995年ごろ - 1039年以降)は、モンス伯(在位:1013年 - 1039年)。

生涯

レニエ5世は、エノー伯レニエ4世とエドヴィジュ・ド・フランスの息子である。母エドヴィジュはフランス王ユーグ・カペーアデライード・ダキテーヌの娘であった。

1013年に名目上のエノー伯およびモンス伯位を継承した。父と同様にロートリンゲン公と対立し、エノー伯領を取り戻そうとした。叔父のルーヴェン伯ランベール1世と共に下ロートリンゲン公ゴットフリート2世と戦った。叔父の死後、その息子アンリ1世はレニエとの同盟を続けた。1018年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世とカンブレー司教ジェラール1世の調停によりナイメーヘンの裁判所でこの紛争は解決された。和平を確実なものとするため、レニエ5世はゴットフリート2世の姪であり、ヴェルダン伯ヘルマン・フォン・エナメの女子相続人であるマティルデと結婚した。この結婚によりブラバントの一部がレニエにもたらされた。これ以降、レニエはゴットフリート2世を支持し、共にホラント伯ディルク3世と戦った。ハインリヒ2世の死後は、両者ともロートリンゲン貴族としてコンラート2世に抵抗した[1]。その後、フランドル伯との対立も起こり、その中でブラバントにあったレニエ5世の最も重要な城であるエナメ城が1033年に破壊された。

父と同様に、レニエ5世は当時の精神世界に強い関心を持ち、サン=ギスラン修道院長オルベールと連絡を取り合った。オルベールは聖ヴェロヌスの伝記をレニエ5世に捧げた。しかし、彼はスタヴロー修道院長ポッポが皇帝コンラート2世とカンブレー司教ジェラールの支援を受けて開始した修道院改革に反対した。レニエ5世はジェラールが任命したサン=ギスラン修道院長エリブランに圧力をかけたため、エリブランらは皇帝に保護を求めた。

妃マティルデとの間に1子をもうけたが、伯位を継承したエルマンが息子なのか、それともその妃リシルドが娘なのかはっきりしない。リシルドは夫エルマンの死後、フランドル伯ボードゥアン6世と再婚した。

脚注

  1. ^ Konrad II. (RI III, 1) n. s”. 2023年4月29日閲覧。

参考文献

先代
レニエ4世
モンス伯
1013年 - 1039年
次代
エルマン



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