ラースロー・デジェーとは? わかりやすく解説

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ラースロー・デジェー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/29 15:37 UTC 版)

ラースロー・デジェー
László Dezső
生誕 1894年7月23日
オーストリア=ハンガリー帝国
ハンガリー王国 ロヴァスパトナ
死没 (1949-06-08) 1949年6月8日(54歳没)
ハンガリー ブダペスト
所属組織 オーストリア=ハンガリー帝国陸軍
ハンガリー陸軍
軍歴 1911年 - 1945年
最終階級 大将
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ラースロー・デジェーハンガリー語: László Dezső, 1894年7月23日 - 1949年6月8日)は、ハンガリーの軍人。大将。

ロヴァスパトナ出身。中尉として第一次世界大戦に従軍。

終戦後、ハンガリー軍に入隊。1925年、参謀本部第1課長、1929年、第4課長、1935年、再び第1課長。1936年と1938年11月から1941年2月、参謀本部第1(作戦)課長となり、対ソ戦の計画立案に参加。1937年2月から1938年11月まで第1混成旅団参謀長。1941年2月、第5旅団長に任命され、1941年3月、参謀本部作戦局長となる。

1941年11月から1943年5月まで参謀本部アカデミー校長。1942年7月から9月まで第7軽歩兵師団長、1943年、東部占領軍を指揮。1943年5月から1944年4月まで第8軍団を指揮し、ウクライナでソ連軍と戦う。ドイツ軍のハンガリー侵入後、ドイツの信頼を得ていたラースリは前線から召還され、1944年5月、参謀次長兼ハンガリー軍総司令官に任命された。

サーラシ・フェレンツの権力掌握後、1944年10月、第1軍司令官に任命。前司令官ダールノキ・ミクローシュ・ベーラは本部を連れてソ連に投降し、第1軍はウジュゴロド-チサフブレドの線まで後退した。終戦まで軍司令官に留まり、中央軍集団の編成下においてソ連軍と戦う。1944年12月、ハンガリー第1軍とドイツ第1装甲軍から成るハインリッヒ軍集団司令官を一時代行。1945年初めに軍集団は撃破された。1945年3月5日、騎士鉄十字章を受章。

1945年5月に逮捕。1949年、ハンガリー人民裁判所により死刑を言い渡され、処刑。



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