ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキの意味・解説 

ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/16 01:49 UTC 版)

ユゼフ・ルボミルスキ

ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキJózef Aleksander Lubomirski, 1751年 キエフ - 1817年7月 ルフネ)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族。ルボミルスキ家の公(侯爵(Fürst)/公爵(książę))。ポーランド軍の陸軍中将、キエフ城代を務めた。

スタニスワフ・ルボミルスキ公の次男で[1]、ルフネ(現在のウクライナリウネ州リウネ)の所領を相続した。1774年よりロマヌフ(現在のヴィエルコポルスカ県クロトシン郡)の代官となり、1790年にキエフ城代となった。軍隊においても、1786年よりポーランド軍の第12軽騎兵連隊、第5軽騎兵連隊の連隊長を務め、1792年には中将に昇進した。1791年の5月3日憲法成立時には4年議会の国会議員としてこれを支持したが、憲法護持のために戦うことには消極的で、病気と称して参加しようとしなかった。翌1792年の護憲戦争ではカミェニェツ・ポドルスキ(現ウクライナ領フメリヌィーツィクィイ州カームヤネツィ=ポジーリシクィイ)駐屯の第4師団の司令官に着任したものの、軍指揮の能力不足から後退を続けた。

共和国で最も裕福なマグナート層に属しており、開明的でポーランドの産業化にも関心を持ち、コジェツ(現ウクライナ領リウネ州コレツ)で製陶工場を経営していた。フリーメイソンとしての活動に熱心だったほか、聖フーベルト勲章、聖スタニスワフ勲章、白鷲勲章を受章していた。1776年、ルドヴィカ・ソスノフスカ(1751年 - 1836年)と結婚し、間に4男2女の6人の子女をもうけた[1]。妻のルドヴィカは娘時代、タデウシュ・コシチュシュコの恋人であった。長男のヘンリク・ルボミルスキ(1777年 - 1850年)は文化人として活動した。

脚注

  1. ^ a b Minakowski, Marek Jerzy. “Józef Aleksander ks. Lubomirski z Lubomierza h. Drużyna (ID: 15.105.503)”. 2012年3月28日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキ」の関連用語

ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS