マテイ・ステルネンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マテイ・ステルネンの意味・解説 

マテイ・ステルネン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 20:00 UTC 版)

マテイ・ステルネン
Matej Sternen
誕生日 1870年9月20日
出生地 Verd
死没年 1949年6月28日
死没地 リュブリャナ
テンプレートを表示

マテイ・ステルネン(Matej Sternen、1870年9月20日 - 1949年6月28日スロベニアの画家である。印象派のスタイルの画家である。

略歴

中央スロベニア地方のVerd で生まれた。クルスコ(Krško)の学校で学んだ後、1881年にグラーツの商業学校で学んだ。1893年から1899年までウィーン美術アカデミーで学んだ[1]ミュンヘンに移り、アントン・アズベの美術学校に入り、ナデジダ・ペトロヴィッチイーゴリ・グラーバリアレクセイ・フォン・ヤウレンスキーといった東欧やロシアの画家たちと共に学んだ[2]。スロベニアからもリハルド・ヤコピッチマティヤ・ヤーマがアズベの美術学校で学んでいた。

1905年にアズベが亡くなると、ミュンヘンを離れ、グラーツやウィーンで印象派のスタイルの作品を描いた。1907年にスロベニアに移り、リハルド・ヤコピッチとリュブリャナで絵画学校を開いた。イタリアを旅し、1909年にはパリに滞在した。1910年から2年間、イタリアとスロベニアの国境の町、ドゥイーノ=アウリジーナに住んだ。

その後、美術品修復の仕事を始め、後に美術品修復に専念した。第一次世界大戦、リュブリャナに戻り、リュブリャナ大学で絵画の教師になった。1924年から彼は絵画と修復の学校を運営した。

第二次世界大戦中、スターネンはクロアチアのナチスの支持者であったが、戦後、迫害されることはなかった。1949年にリュブリャナで亡くなった。

作品

脚注

  1. ^ A.C., Sternen, Matej, in Ausst. Kat.: Wege zur Moderne und die Ažbe-Schule in München, Museum Wiesbaden 1988, S. 128
  2. ^ Bernd Fäthke, Jawlensky und seine Weggefährten in neuem Licht, München 2004, Abb. 24, S. 39

参考文献

  • A. C., Sternen, Matej, in Ausst. Kat.: Wege zur Moderne und die Ažbe-Schule in München, Museum Wiesbaden 1988, S. 128 Tomaz Brejc, Slovenski Impresionisti eropsko slikarstvo, Ljubljana 1982, S. 65–82



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  マテイ・ステルネンのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マテイ・ステルネン」の関連用語

マテイ・ステルネンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マテイ・ステルネンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマテイ・ステルネン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS