ボンヌ・ダルトワとは? わかりやすく解説

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ボンヌ・ダルトワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/29 04:03 UTC 版)

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ボンヌ・ダルトワ
Bonne d’Artois
フランドル派画家が描いたボンヌ・ダルトワの肖像

出生 1396年頃
死去 1425年9月17日
ディジョン
埋葬 シャンモル修道院
配偶者 ヌヴェール伯・ルテルフィリップ・ド・ブルゴーニュ
  ブルゴーニュ公フィリップ3世
子女 シャルル
ジャン
家名 アルトワ家
父親 ウー伯フィリップ・ダルトワ
母親 マリー・ド・ベリー
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ボンヌ・ダルトワBonne d’Artois, 1396年頃 - 1425年9月17日)は、中世フランスの貴族女性。ウー伯フィリップ・ダルトワと、ベリー公ジャンの娘でオーヴェルニュ公領ドイツ語版の女子相続人であるマリーの間の長女。

1413年6月20日にボーモン=アン=アルトワ(現エナン=ボーモン)において、ヌヴェール伯およびルテルフィリップと最初の結婚をした。夫妻は間に2人の息子をもうけたが、夫は1415年のアジャンクールの戦いで戦死した。

  • シャルル(1414年 - 1464年) - ヌヴェール伯、ルテル伯
  • ジャン(1415年 - 1491年) - エタンプ伯、ヌヴェール伯、ルテル伯、ウー伯

1424年11月30日にムーラン=アンジルベール英語版において、亡夫の甥にあたるブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンと再婚した。ブルゴーニュ公は先妻のフランス王女ミシェルと死別しており、再婚同士の夫婦だった。しかし再婚から10カ月後にボンヌは死去し、ブルゴーニュ公はポルトガル王女イザベルを3番目の妻に迎えた。ボンヌの遺骸はシャンモル修道院に埋葬された。

参考文献

  • Detlev Schwennicke: Europäische Stammtafeln. Band II, 1984, Tafel 24 und Band III.1, 1984, Tafel 70



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