ヘンリー・ラスヴェン・ムーアとは? わかりやすく解説

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ヘンリー・ラスヴェン・ムーア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/05 05:43 UTC 版)

ヘンリー・ラスヴェン・ムーア
Henry Ruthven Moore
スカパ・フローに停泊する戦艦デューク・オブ・ヨーク艦上で撮影
生誕 1886年8月29日
イギリス
ケント プラムステッド英語版
死没 1978年3月12日(1978-03-12)(91歳没)
イギリス
ケント ウォータリングベリー英語版
所属組織  イギリス海軍
軍歴 1902年–1951年
最終階級 海軍大将英語版
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サー・ヘンリー・ラスヴェン・ムーア英語: Sir Henry Ruthven Moore, GCB, CVO, DSO 1886年8月29日1978年3月12日) は、イギリス海軍軍人。最終階級は海軍大将。

略歴

1902年に王立海軍に入隊[1]。1916年のユトランド沖海戦に参加し、その年の9月に殊功勲章を授与された。

第一次大戦後にグリニッジ海軍兵学校英語版の教職員や帝国防衛委員会英語版の海軍次官補(Naval Assistant Secretary)を務めた[1]。1928年から1930年まで軽巡洋艦カラドック英語版ドーントレス艦長を歴任。1930年、計画課副課長(Deputy Director of Plans)、1933年、軽巡ネプチューン初代艦長、1936年、本国艦隊参謀長、1938年、ポーツマス司令長官英語版参謀長[1]

第二次大戦勃発時は第3巡洋戦隊司令官だった。1940年に海軍参謀総長補英語版(Assistant Chief of the Naval Staff)[1]、1941年、新設のポストである海軍参謀副長英語版(Vice Chief of the Naval Staff)に着任[2]。1943年、後任をサー・エドワード・サイフレットに譲り、自身は本国艦隊隷下の第2戦艦戦隊英語版司令官に任じられた。1944年に同戦隊は解隊。ムーアは本国艦隊司令長官に補職される[1]。5月、ドイツ海軍の戦艦ティルピッツ攻撃に貢献したことにより殊勲報告書に名前が記載された[3]

戦後、在ワシントンD.C.の英国海軍顧問団団長を務める。1946年には国連安全保障理事会軍事参謀委員会初代議長に就任[1]。1948年に就任したノア司令長官英語版のポストを最後[1]に、1951年に退役[4]

栄典等

脚注

軍職
先代
新設
海軍参謀副長英語版
1941年–1943年
次代
サー・エドワード・サイフレット
先代
初代フレーザー・オブ・ノース・ケープ男爵
本国艦隊司令長官
1944年–1945年
次代
サー・エドワード・サイフレット
先代
サー・ハロルド・バロー
ノア司令長官英語版
1948年–1950年
次代
サー・セシル・ハーコート英語版
名誉職
先代
初代フレーザー・オブ・ノース・ケープ男爵
第一及び筆頭海軍侍従武官英語版
1948年–1949年
次代
サー・アーサー・パワー英語版



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