プブリウス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前175年の執政官)とは? わかりやすく解説

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プブリウス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前175年の執政官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 23:03 UTC 版)

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プブリウス・ムキウス・スカエウォラ
P. Mucius Q. f. P. n. Scaevula
出生 不明
死没 紀元前176年
出身階級 プレブス
氏族 ムキウス氏族
官職 法務官紀元前179年
執政官紀元前175年
指揮した戦争 対リグリア戦争
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プブリウス・ムキウス・スカエウォラ(Publius Mucius Scaevola)は共和政ローマプレブス(平民)出身の政治家・軍人。紀元前175年執政官(コンスル)に就任、リグリアに勝利した。紀元前169年には監察官(ケンソル)に立候補するが落選した。

出自

古代の歴史家は、紀元前508年ローマを包囲したエトルリアラルス・ポルセンナを暗殺しようとして捕虜となり、その面前で自身の右手を焼いて勇気を示した、伝説的な英雄であるガイウス・ムキウス・スカエウォラ(スカエウォラは左利きの意味)をムキウス氏族の先祖としているが、現代の研究者はこれはフィクションであると考えている[1]。実際、高官を出したムキウス氏族はプレブス系であり、歴史に登場するのは比較的遅く、紀元前220年クィントゥス・ムキウス・スカエウォラが執政官に就任したときである(即ち、ガイウス以来300年近く歴史に登場していない)。プブリウス・ムキウス・スカエウォラは彼の長男であり、そのプラエノーメン(第一名、個人名)は祖父から受け継いでいる[2]。父の名前を継いだ弟のクィントゥス・ムキウス・スカエウォラは、紀元前174年の執政官である[3][4]

経歴

ムキウス氏族は、影響力あるプレブス一族であるフルウィウス・フラックス家と密接な関係を築いていた。紀元前179年にはプブリウスも弟のクィントゥスも、法務官(プラエトル)に就任しているが、同年の執政官はクィントゥス・フルウィウス・フラックスとその兄弟のルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌスであった[2]。プブリウスは、プラエトルの中でも最も地位が高いとされるプラエトル・ウルバヌスとなっている[5]。加えて、元老院はローマ市内で発生した中毒事件に関して10マイル四方を調査するように命じた。この調査には、前年の補充執政官である別のクィントゥス・フルウィウス・フラックス(執政官クィントゥスの従兄弟)も調査に関わっており、フルウィウス・フラックス家にとって最優先の事項となった[2]

紀元前175年、スカエウォラは執政官に就任。同僚は二度目の執政官となったマルクス・アエミリウス・レピドゥスであった。両執政官はイタリア北部へ出征し、ルナピサを略奪したリグリア人と戦った。この戦争に関しては、リウィウスの『ローマ建国史』の該当部分が失われてしまっているため、ほとんど分かっていない。しかし、ローマ軍は勝利し、元老院は感謝祭を実施している。スカエウォラとリピドゥスはローマに戻って凱旋式を実施した[6]。この年の末、スカエウォラは翌年の公職選挙を監督し、弟のクィントゥスが執政官に当選するよう援助した。

次にスカエウォラが記録に登場するのは紀元前170年のことであり、ボイオーティアのフィスバ(en)との条約に元老院が署名する際に、スカエウォラが最初に署名していることから、元老院議員の中で最長老で影響力があったことが分かる[7]

紀元前169年には監察官選挙に立候補するが、ティベリウス・センプロニウス・グラックスに敗北した[8]。その後、彼に関する記録はない[7]

子孫

スカエウォラには二人の息子があった。一人は同名のプブリウス・ムキウス・スカエウォラで、紀元前133年に執政官となっている。もう一人はプブリウス・リキニウス・クラッススの養子となり、プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスと名前を変えて紀元前131年の執政官となっている[3][9]

脚注

  1. ^ Münzer F. "Mucius", 1933 , s. 412.
  2. ^ a b c Münzer F. "Mucius 16", 1933, s. 424.
  3. ^ a b Münzer F. "Mucius", 1933, s. 413-414.
  4. ^ Egorov, 2003, p. 191-193.
  5. ^ Broughton, 1951, p. 392.
  6. ^ Broughton, 1951, p. 401-402.
  7. ^ a b Münzer F. "Mucius 16", 1933, s. 425.
  8. ^ ティトゥス・リウィウスローマ建国史』、XLIII, 14.
  9. ^ マルクス・トゥッリウス・キケロ『ブルトゥス』、98.

参考資料

古代の資料

研究書

  • Egorov A. "Mutsii Scevola, Licinii Crassus and Julia Caesari (Roman intelligentsia and crisis of the end of I - beginning of II centuries BC)" // Mnemon. - 2003. - No. 2 . - P. 191-204 .
  • Broughton T. "Magistrates of the Roman Republic" - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
  • Münzer F. "Mucius" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1933. - Bd. XVI, 1. - Kol. 412-414.
  • Münzer F. "Mucius 16" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1933. - Bd. XVI, 1. - Kol. 424-425.

関連項目

公職
先代:
グナエウス・コルネリウス・スキピオ・ヒスパッルス
クィントゥス・ペティッリウス・スプリヌス
執政官
同僚:マルクス・アエミリウス・レピドゥス
紀元前175年
次代:
スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス・パウッルルス
クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ



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