フィリップ・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ
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フィリップ Philipp |
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コーブルグ=コハーリ家 | |
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1875年
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全名 |
一覧参照
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出生 | 1844年3月22日![]() |
死去 | 1921年7月4日(77歳没)![]() |
埋葬 | ![]() |
配偶者 | ルイーズ・フォン・ベルギエン |
子女 | レオポルト・クレメンス ドロテア |
父親 | アウグスト |
母親 | クレマンティーヌ |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
フィリップ・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ(ドイツ語: Philipp von Sachsen-Coburg und Gotha, 1844年3月22日 - 1921年7月4日)は、コハーリ侯爵家の公子。ブルガリア王フェルディナントの長兄にあたる。金羊毛勲章、ポルトガルの塔および剣勲章を受章している。
生涯
ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アウグストと、その妻のフランス王女クレマンティーヌ(ルイ=フィリップ1世の四女)の長男として生まれ、1870年にハンガリー王国軍の陸軍少佐となった。1875年2月4日、従姪にあたるベルギー王女ルイーズ(従兄のレオポルド2世の長女)と結婚した。
フィリップは義弟のオーストリア皇太子ルドルフとは親友で、1889年1月30日未明に起きたマイヤーリンク事件ではヨーゼフ・ホヨス=シュプリンツェンシュタイン伯爵および近習のヨハン・ロシェックと一緒に、ルドルフ皇太子とその愛人マリー・フォン・ヴェッツェラの遺体を発見している。
ルイーズとの結婚生活は悲惨なものであり、ルイーズは1896年に夫の許を離れて別居した。2年後の1898年には彼女に対する禁治産宣告が出され、1906年1月15日には二人の離婚が成立した。ルイーズはハンガリー貴族のマッタチチュ=ケグレヴィチ・ゲーザ伯爵(Mattachich-Keglevich Geza, 1867年 - 1923年)と長く愛人関係にあったため、フィリップは主君の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から妻の情夫との決闘を命じられている。ルイーズはまたフィリップの副官とも男女の関係にあった。
フィリップはコーブルクにある城館で晩年を過ごし、77歳でこの世を去った。遺骸はコーブルクの聖アウグスティン教会にあるコハーリ侯爵家の地下納骨堂に埋葬された。
子女
ルイーズとの間に1男1女を儲けた。
- レオポルト・クレメンス・フィリップ・アウグスト・マリア(1878年 - 1916年)
- ドロテア・マリア・ヘンリエッテ・アウグステ・ルイーゼ(1881年 - 1967年) - シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公エルンスト・ギュンターと結婚

固有名詞の分類
金羊毛騎士団員 |
セバスティアン・ガブリエル・デ・ボルボーン・イ・ブラガンサ マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス フィリップ・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ レオ・カール・フォン・エスターライヒ ラモラール・ファン・エフモント |
オーストリア=ハンガリー帝国の軍人 |
ステファン・サルコチッチ・フォン・ロヴチェン ゲオルク・フォン・トラップ フィリップ・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ レオ・カール・フォン・エスターライヒ フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ |
コーブルク=コハーリ家 |
アウグスト・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ フェルディナント・ゲオルク・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ フィリップ・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ クロティルデ・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ アマーリエ・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ |
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