フィリップスブルク包囲戦 (1688年)とは? わかりやすく解説

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フィリップスブルク包囲戦 (1688年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/06 10:15 UTC 版)

フィリップスブルク包囲戦

包囲戦の地図
戦争大同盟戦争
年月日1688年9月27日 - 10月29日
場所シュパイヤー司教領英語版フィリップスブルク英語版
結果:フランスの勝利
交戦勢力
フランス王国 神聖ローマ帝国
指導者・指揮官
ジャック・アンリ・ド・デュルフォール・ド・デュラス英語版
ニコラ・カティナ
セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン
マクシミリアン・ロレンツ・フォン・シュターレンベルクドイツ語版[1]
戦力
30,000-40,000 約2,000
損害
戦死587
負傷1,013
約600

フィリップスブルク包囲戦(フィリップスブルクほういせん、英語: Siege of Philippsburg)は大同盟戦争中の1688年9月27日から10月29日にかけて行われた、フィリップスブルク英語版の包囲戦。

歴史

1688年にケルン選帝侯マクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルン英語版が死去すると、その後継者に2人が名乗り上げた。1人はフランス王ルイ14世が、もう1人は神聖ローマ皇帝レオポルト1世が支持した。決定は教皇インノケンティウス11世に委ねられたが、彼はレオポルト1世の推す候補を選んだ[2]。この出来事はアウクスブルク同盟戦争の始まりとなり、フィリップスブルク包囲戦がその最初の軍事行動となった。

経過

ルイ14世は息子のグラン・ドーファンにドイツ侵攻を命じ、プファルツ選帝侯領の大半はすぐに降伏したが、フィリップスブルクのみが陥落しなかった。その後、セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンの攻城術もありフィリップスブルクは1か月間の包囲を経て降伏した[3]

脚注

  1. ^ Pujo, Bernard (1991). Albin Michel. ed (フランス語). Vauban. Paris. p. 148. ISBN 222605250X 
  2. ^ Lavisse, Ernest (1908). Robert Laffont. ed (フランス語). Louis XIV : histoire d'un grand règne, 1643-1715. Paris. p. 746. ISBN 2221055020 
  3. ^ Jaques, Tony (2007) (英語). Dictionary of Battles and Sieges: P-Z. USA: Greenwood Publishing Groupisbn=978-0-313-33536-5. p. 794. https://books.google.com/books?id=tW_eEVbVxpEC&pg=PA794 



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