ハマー虐殺 (1981年)とは? わかりやすく解説

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ハマー虐殺 (1981年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 06:26 UTC 版)

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ハマー虐殺 (アラビア語: مجزرة حماة‎) は1982年2月にハーフィズ・アル=アサド大統領の命令によりシリア軍がハマーの街で実行した焦土作戦の結果として起こった。この、アサド政権のもとで蜂起したムスリム同胞団の鎮圧を目的とした作戦を指揮したのは、アサド大統領の弟であるリフアト・アル=アサドだとされている[1]。指導者層が大統領も含めアラウィ派出身の人間に偏っていたアサド政権に対して、ムスリム同胞団をはじめとしたスンニ派イスラム主義者集団が行った1976年に始まる組織的運動は、1982年のハマー虐殺により事実上終わりを迎えた。

ハマー虐殺 After Hama Massacre.jpg 政府軍による攻撃後の街の一角 場所 シリアの旗 シリア、ハマー 日付 1982年2月2日〜28日 標的 ムスリム同胞団 攻撃手段 焦土作戦 死亡者 10,000人から40,000人のスンニ派の一般市民(推計にはばらつきがある) 犯人 ハーフィズ・アル=アサド リフアト・アル=アサド

• シリア陸軍
• シリア空軍
• ムハーバラート

テンプレートを表示 はじめ西側諸国に外交筋から伝えられた数字は、1,000人が殺害された、というものだった[2][3]。その後の推計にはばらつきがあり、最も少ない10,000人以上のシリア市民が殺されたという報道から[4]、20,000人(ロバート・フィスク[1])、40,000人(シリア人権委員会[5][6])まで数字の開きがある。作戦中にシリア軍兵士も1,000人余りが死亡し、歴史ある街の大部分が破壊された。例外的な、という意味ではヨルダンの黒い9月事件と並ぶであろう[7]この出来事は「単一の事件としては現代の中東においてアラブ系政府が自国民に対して起こした最悪の行動」[8]の一つにも数えられる。犠牲者の圧倒的大多数は一般市民だった[9]。

シリア国内のメディアのまとめによれば、戦闘を開始した反政府派の暴徒は「家で眠りについている我々の仲間に襲いかかり、手当たり次第に女子供を殺し、犠牲者の遺体をバラバラにして路上に放置している。彼らはまるで狂犬のように暗い憎しみに突き動かされていた」。しかし治安部隊が「彼らの犯罪に立ち向かうべく動きだし」、「殺人鬼の息の根をとめて懲らしめた」[10]。

背景 編集 アラブ民族主義とアラブ社会主義を標榜するシリアのバース党は保守主義を掲げるムスリム同胞団と1940年以来衝突を繰り返していた[11] 。この二つの組織は重要な点で考えを異にしていた。世俗的かつ民族主義的で、少数のアラウィ派に率いられるバース党(さらにアラウィ派は保守的なスンニ派のイスラム教徒から異端とみなされていた)と他のイスラム主義組織同様に民族主義を非イスラム的とみなし、政治および政府は信仰とは分離できないと考えるムスリム同胞団の違いは大きかった。バース党員の大多数が社会的に地位が低く出自が不明であり、過激な経済政策を好んだのに対して、スンニ派のムスリムはシリアの権力基盤を押さえ、スークを支配しており、経済に介入する政府を脅威とみなす傾向にあった[12]。とはいえスンニ派の著名人が全て原理主義を信奉していたわけではなく、同胞団をバース党に対抗するための便利な道具とみていただけでもない[13]。


政府軍による攻撃前のハマーの街 ハマーは単なるシリアの一都市ではなく「この地に根づく保守主義とムスリム同胞団の砦」であり「かねてからバース党国家の恐るべき敵であった」。両派による最初の本格的な衝突が1963年のクーデター(ラマダーン革命)の直後に起こり、 この騒乱のなかでバース党は初めてシリア国内で権力を掌握した。しかし1964年4月にハマーで暴動が起こり、イスラム教徒の反政府勢力が「バリケードを築き、食糧と武器を集め、ワインショップを荒らした」。イスマーイール派のバース党員だった民兵が殺されると暴動は勢いを増し、ハマーにおいてバース党の「痕跡を残すあらゆるもの」に襲いかかった。暴徒を鎮圧するために戦車が動員され、ムスリム同胞団には70人の死者が出た。多くの逮捕者や負傷者が出たが、地下に姿を消した人間はそれ以上に多かった。

ハマーでの衝突後、政府とイスラム主義諸派は定期的に争う事態になった。しかしさらに深刻な問題が生じたのは1976年のシリアによるレバノン侵攻後である。1976年から1982年にかけてスンニ派のイスラム主義者はバース党の操る政府と「テロルの長い戦い」(Long campaign of terror [13])と呼ばれる運動を行った。1979年には同胞団が国内の複数の都市で軍当局者や政府職員をターゲットにしたゲリラ活動を展開した。それに対して政府は大量逮捕や拷問、虐待、そして虐殺を行った。1980年7月、法律第49号が制定されムスリム同胞団のメンバーであることが死を意味するものとなった[14]。

1980年代に入ってからも数年間はムスリム同胞団を始めとするイスラム主義諸派による政府機関やその職員へのゲリラ攻撃、爆弾攻撃が続き、1980年6月26日にはマリ大統領の政府主催レセプションの最中にハーフィズ・アル=アサド大統領が暗殺されかける事件まで起こった。マシンガンの一斉射撃がそばをかすめるなか、アル=アサドは投げ込まれた手榴弾に駆け寄って蹴り返し、ボディガードがもう一つの爆弾の炸裂を身体で押さえ込んだと伝えてられている(彼は生き残り、後にきわめて高い地位に昇進している)。軽傷を負った程度で生き延びたアル=アサドは速やかな、容赦ない復讐を命じた。弟のリフアト・アル=アサドの忠実な部下によって、わずか数時間後にはパルミラ近郊のタドモル刑務所の監房内において、投獄されていたイスラム主義者(1200人以上という報告がある)の多くの処刑が実行された。




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