ドロテア・ア・ダンマーク_(1520-1580)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ドロテア・ア・ダンマーク_(1520-1580)の意味・解説 

ドロテア・ア・ダンマーク (1520-1580)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/04 00:11 UTC 版)

ドロテア・ア・ダンマーク
Dorothea af Danmark
プファルツ選帝侯夫人ドロテアの横顔を刻んだメダル
出生 (1520-11-10) 1520年11月10日
死去 (1580-05-31) 1580年5月31日(59歳没)
埋葬  
ハイデルベルク聖霊教会英語版
配偶者 プファルツ選帝侯フリードリヒ2世
父親 デンマーククリスチャン2世
母親 イサベル・デ・アウストリア
テンプレートを表示

ドロテア・ア・ダンマークDorothea af Danmark, 1520年11月10日 - 1580年5月31日)は、デンマーククリスチャン2世と王妃イサベラ・ア・ブアグンの間の長女。プファルツ選帝侯フリードリヒ2世の妻。

生涯

1523年に父王が廃位されると、両親や兄妹と一緒に母の故郷低地地方に亡命した。大叔母マルグリットや伯母マリアら、ハプスブルク家の女性親族の庇護下で育てられた。カトリックを信奉するマルグリット大叔母の宮廷で育ったものの、密かにプロテスタントの教説に共感を抱いていた。

1532年に兄ハンスが夭折すると、父のデンマーク王位請求権の相続者と見なされるようになった。1535年9月29日にハイデルベルクにおいて、38歳年上のプファルツ選帝侯フリードリヒ2世と結婚した。夫妻の間に子供は無かった。1544年、ハプスブルク家はドロテアを正統なデンマーク王位の相続者とする主張を取り下げた。

1556年に夫と死別した後、ノイマルクト英語版宮中伯城ドイツ語版で寡婦生活を送った。死後、ハイデルベルクの聖霊教会英語版に葬られた。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドロテア・ア・ダンマーク_(1520-1580)」の関連用語

ドロテア・ア・ダンマーク_(1520-1580)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドロテア・ア・ダンマーク_(1520-1580)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのドロテア・ア・ダンマーク (1520-1580) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS