セベロ・モトヌサとは? わかりやすく解説

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セベロ・モトヌサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/13 22:26 UTC 版)

セベロ・モトヌサ
2008年、スペイン・トレドにて
赤道ギニア進歩党党首
任期
1983年2月25日 – 現在
個人情報
生誕 Severo Matías Moto Nsá
(1943-11-06) 1943年11月6日(82歳)
スペイン領ギニア ニエファン英語版
政党 赤道ギニア進歩党
大臣 元・情報観光大臣
宗教 ローマ・カトリック

セヴェロ・マティアス・モト・ヌサ(Severo Matías Moto Nsá、1943年11月6日生 - 、通称セヴェロ・モトとしても知られる)は赤道ギニアの政治家、赤道ギニア進歩党党首。現在はスペインにて亡命生活を送り、同国で亡命政府を樹立している[1]

リオ・ムニ中南部県アコックで生まれたモトは、カトリック司祭になるための教育を受けた。1970年代には赤道ギニア初代大統領フランシスコ・マシアス・ンゲマの下で、ラジオ局の技師と新聞の編集者として働いていた。テオドロ・オビアン・ンゲマ大統領は、1979年9月にハバナで開催された非同盟運動のサミットに、赤道ギニア代表としてモトを任命し、1980年には情報観光省の技術責任者、1981年には情報観光大臣の職に就いた。しかし、モトとテオドロ大統領はまもなく不和に陥る。伝えられるところによれば、政策に関する意見の不一致と、モトが改革による開放を望んたことが原因である。モトは1981年12月に赤道ギニアから逃亡し、スペインに亡命。亡命生活を送りながら野党指導者としての活動をつづけた[2]

野党指導者として帰国したモトは、マラボブラックビーチ刑務所に収監されるものちに釈放され、スペインへの帰国を許された。彼は、赤道ギニアで数回の選挙に勝利したと主張している。2004年3月にサイモン・マンニック・ドゥトワが主導したテロ未遂事件(2004年赤道ギニアクーデター未遂事件英語版)では、首謀者として赤道ギニア政府から告発され、欠席裁判にかけられた。2005年に短期間姿を消したが、無傷で再び姿を現した。彼は、2人の殺し屋にクロアチアのドゥブロヴニクでヨットに連れ出されたが、同じローマカトリック教徒であるという理由で解放された、と主張している。

スペインでの亡命生活

2005年12月30日、スペイン政府は彼の政治亡命を解除した。モトは、第三国に追放される前に赤道ギニアに戻り自由選挙を求めると述べる一方、この決定に対して控訴し、2008年3月スペイン最高裁判所は最終的に亡命申請を認めた[3]

2008年3月4日[4]、バレンシアはサグント港の車内で武器が発見[3][4]され、赤道ギニアへ輸送される予定だったと報じられた。2008年4月中旬、モトはこの事件に関与した疑いでトレド県にて逮捕された[3][4]

脚注

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