ジョージ・ダンロップ・レスリーとは? わかりやすく解説

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ジョージ・ダンロップ・レスリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/26 06:40 UTC 版)

ジョージ・ダンロップ・レスリー
George Dunlop Leslie
自画像 (1882年)
生誕 1835年7月2日
イギリスロンドン
死没 1921年2月21日
イギリスサセックス
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レスリーの初期の作品「Matilda」(1859年) (神曲 煉獄篇英語版マテルダ英語版題材)

ジョージ・ダンロップ・レスリー(George Dunlop Leslie RA、1835年7月2日 - 1921年2月21日)はイギリスの画家である。

略歴

ロンドンで生まれた。父親のチャールズ・ロバート・レスリーは文学作品を題材にした絵画を得意にした画家で、叔父のロバート・レスリーは海洋画家であった。フランシス・スティーブン・ケーリが運営するロンドンの私立の美術学校で学んだ後、1854年からロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校で学んだ。1859年からロイヤル・アカデミーの展覧会に毎年出展をした。1868年にロイヤル・アカデミーの準会員になり、1876年に正会員になった。

はじめ、ロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターセント・ジョンズ・ウッド英語版(St John's Wood)地区に住み、フィリップ・ハモジェニーズ・コールドロンやヘンリー・ステイシー・マークスらと「セント・ジョンズ・ウッド派英語版(St John's Wood Clique)」を形成した。

1884年にオックスフォードシャーセントレオナルド・フォスターレーン英語版に住み、近所に住む画家の姉メアリー・レスリー(Mary Leslie: 1833–1907)やジェームズ・ヘイラー(James Hayllar:1829–1920)と1887年のビクトリア女王即位50年を記念する肖像画を描いた[1]。1906年からはサセックスの Lindfieldに住んだ。

初期の作品の「Matilda」[2]には、当時イギリスで流行していたラファエル前派の影響が見られるが、イギリスの家族の生活の雰囲気を描くスタイルに変わっていき、子供たちや、親子を題材に描いた[3]

作家としても、自ら挿絵を描いた随筆、「Our river」(1888)、「Letters to Marco」(1893)、「Riverside letters」(1896)を出版し、ロイヤル・アカデミーの初期の歴史を書いた、「The inner life of the Royal Academy」も出版した。

作品

脚注

  1. ^ G D Leslie”. 2014年7月26日閲覧。
  2. ^ Mathilda.
  3. ^ G D leslie[リンク切れ] (Mid Sussex Times, May 2003).

参考文献

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