ジュール=エルキュール=メリアデック・ド・ロアンとは? わかりやすく解説

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ジュール=エルキュール=メリアデック・ド・ロアン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/17 10:22 UTC 版)

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ジュール=エルキュール=メリアデック・ド・ロアン
Jules-Hercule-Mériadec de Rohan
ゲメネ公
モンバゾン公爵、ヨハン・エルンスト・ハインジウス英語版画、1776年
在位 1757年 - 1800年

出生 (1726-03-26) 1726年3月26日
フランス王国パリ
死去 (1800-12-10) 1800年12月10日(74歳没)
墺領ネーデルラントカルルスブールフランス語版
配偶者 マリー・ルイーズ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ
子女 アンリ=ルイ=マリー
家名 ロアン家
父親 ゲメネ公エルキュール=メリアデック
母親 ルイーズ・ド・ロアン
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ジュール=エルキュール=メリアデック・ド・ロアンJules-Hercule-Mériadec de Rohan, 1726年3月26日 - 1800年12月10日)は、ブルボン朝末期フランスの貴族、廷臣。モンバゾン公爵、のちゲメネ公。枢機卿ルイ=ルネ=エドゥアール・ド・ロアンの兄。

生涯

ゲメネ公エルキュール=メリアデックと、同族のスービーズ公エルキュール=メリアデックの娘ルイーズ・ド・ロアンの間の長男。1743年2月19日にパリで、ブイヨン公シャルル・ゴドフロワの娘で富裕な女子相続人だったマリー・ルイーズと結婚[1][2]。フランス軍に仕え、陸軍中将に至った。オーストリア継承戦争中のベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦などに従軍した。

フランス革命が勃発すると、息子アンリ=ルイ=マリー(1745年 - 1809年)の一族と共に国境を越え亡命、墺領ネーデルラントに妻方ブイヨン公家が所有するカルルスブール(現ベルギーリュクサンブール州パリスール英語版の一部)で死んだ。家族は彼の死後、墺領ボヘミアに移住した。

引用・脚注

  1. ^ Paul Theroff. “La Tour d’Auvergne”. Paul Theroff's Royal Genealogy Site. 2020年1月4日閲覧。
  2. ^ JULES Hercule Meriadec, 7th Duc de Montbazon, Pr de Guéméné(1726-1800),Genealogy.euweb.Rohan5.
先代:
エルキュール=メリアデック
ゲメネ公
1757年 - 1800年
次代:
アンリ=ルイ=マリー



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