ジャン=バティスト・マリー・ピエールとは? わかりやすく解説

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ジャン=バティスト=マリー・ピエール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/10 06:25 UTC 版)

ジャン=バティスト=マリー・ピエール
Jean-Baptiste-Marie Pierre
Guillaume Voiriotによる肖像画
生誕 1714年3月6日
フランス王国パリ
死没 1789年5月15日
フランス王国パリ

ジャン=バティスト=マリー・ピエール(Jean-Baptiste-Marie Pierre、1714年3月6日 - 1789年5月15日)はフランスの画家である。王室の筆頭画家(premier peintre du Roi) などを務めた。

略歴

パリで生まれた。王立絵画彫刻アカデミーシャルル=ジョゼフ・ナトワールに学んだとされる。1734年にローマ賞を受賞し、奨学金を得て、1735年から1740年の間、在ローマ・フランス・アカデミーに滞在した。当時の在ローマ・フランス・アカデミーはニコラ・ヴルーゲルスジャン=フランソワ・ド・トロワが校長を務めていた。

パリに戻った後、1741年に王立絵画彫刻アカデミーに推薦され、1742年に会員となった。宗教や歴史、神話をテーマにした作品を描き高い評価を得た。

1744年にアカデミーの准教授となり、1748年に正教授となった。1752年に王太子、オルレアン公の筆頭画家となり、多くの宮殿の装飾画やパリのサンロック教会のドームに天井画を描いた。1761年にサン・ミシェル勲章(Ordre de Saint-Michel)を受勲し、1770年に亡くなったフランソワ・ブーシェの後任として、「王室の筆頭画家」の称号を得た。王立タペストリ工場の監督も務めた。亡くなるまでの約20年間、マリニー侯爵らとともに、フランスの美術界に強い影響力を持った。

ピエールが教えた芸術家にはエティエンヌ・ルイ・ブーレーやルイ・ジャン=ジャック・デュラモー、ジャン=ユーグ・タラヴァルらがいる。

作品

参考文献

  • Marc Furcy-Raynaud, Correspondance de M. d'Angiviller avec Pierre, J. Schemit, Paris, 2 vol., 1905-07
  • Olivier Aaron, Jean-Baptiste Marie Pierre, 1714-1789, Cahiers du Dessin Français 9, Galerie de Bayser, Paris; Ars Libri, Boston, 1993
  • Christian Michel, Charles-Nicolas Cochin et l'art des Lumières, École française de Rome, Rome, 1993



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