ギヨーム2世 (アキテーヌ公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/05 22:36 UTC 版)
ギヨーム2世 Guillaume II |
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オーヴェルニュ伯 アキテーヌ公 |
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在位 | 918年 - 926年 |
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死去 | 926年12月12日 |
家名 | ベロニド家 |
父親 | カルカソンヌ伯アクフレド1世 |
母親 | アドランド・ドーヴェルニュ |
ギヨーム2世(Guillaume II, duc d'Aquitaine, ? - 926年12月12日)は、オーヴェルニュ伯およびアキテーヌ公(在位:918年 - 926年)。母方の伯父ギヨーム1世から爵位を継承した。
生涯
ギヨーム2世は、カルカソンヌ伯アクフレド1世と、アキテーヌ公ギヨーム1世の妹でオーヴェルニュ伯ベルナール2世の娘であるアドランドの息子である。
伯父ギヨーム1世敬虔公の死後、アキテーヌ公位、オーヴェルニュ伯位およびリヨン伯位を継承した。
ギヨーム2世は919年、ベリーをロベール家のラウールとロベールに奪われたが、マコネーとリヨネーは保持した[1]。西方からの脅威を感じたギヨーム2世は、トゥールーズ伯レーモン2世に頼み、同盟を締結するためゴティアをレーモン2世に託した。
923年、シャルル3世単純王が廃位され、後にブルゴーニュ公ロベール、そしてラウールが勝利した後、ギヨーム2世とレーモン2世はアキテーヌ北部に直接的な脅威を与えていたロベール家およびブルゴーニュ公と対立し、カロリング家側についた。924年初頭のラウールによるロワール遠征を受け、ギヨーム2世はアンシーズ[注釈 1]での会見の際に、ラウールに臣下の礼をささげた[1][2]。ラウールは有力な家臣の服従に感謝し、ベリー、ブールジュ、マコン伯領をギヨーム2世に返還した[1]。
2年後、ギヨーム2世はラウールがノルマン人とマジャル人に対する敗北に乗じて反乱を起こし、シャルル単純王の返還を要求した。フランス・ブルゴーニュ軍を率いたラウールは、ヴェルマンドワ伯エルベール2世を伴い、アキテーヌ公の弟アクフレが守るヌヴェールへ進軍した。ラウールは人質を預かるだけにとどめ、ロワール川を渡ってアキテーヌ公ギヨーム2世に挑んだが、敗北した。ギヨーム2世はその年の末に死去し、アキテーヌ公となった弟アクフレは927年に死去するまで反乱を続けた[2]。
注釈
- ^ アンシーズは現在のドシーズとされている。
脚注
参考文献
- Lauranson-Rosaz, Christian (2006). “Les Guillelmides : une famille de l’aristocratie d’empire carolingienne dans le Midi de la Gaule (VIIIe – Xe siècles)”. In Laurent Macé (フランス語). Entre histoire et épopée: Les Guillaume d'Orange (IXe – XIIIe siècles). Toulouse: CNRS/Université de Toulouse-Le Mirail. pp. 45-81. ISBN 2912025257
- Touchard-Lafosse, Georges (1841). La Loire historique, pittoresque et biographique. vol. 2. Tours, Nantes: R. Pornin (Tours), Suireau (Nantes). p. 474
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