カーナボーン・ベジャラタナとは? わかりやすく解説

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カーナボーン・ベジャラタナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/08 16:53 UTC 版)

カーナボーン・ベジャラタナ
母親のスナンダ・クマリラタナと共にいる王女カーナボーン・ベジャラタナ

出生 1878年8月12日
シャムバンコク王宮
死亡 1880年5月31日(1歳没)
シャムノンタブリー県パーククレット郡
王室 チャクリー王朝
父親 ラーマ5世
母親 スナンダ・クマリラタナ
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称号:王女
敬称 殿下
Her Royal Highness the Princess
สมเด็จพระเจ้าบรมวงศ์เธอ เจ้าฟ้า

カーナボーン・ベジャラタナタイ語: กรรณาภรณ์เพ็ชรรัตน์RTGSKannaphonphetcharat、Kannabhorn Bejaratana、1878年8月12日 – 1880年5月31日)は、シャム(後のタイ王国)の王女。チャクリー王朝の一員で、ラーマ5世の娘だった。

母親はラーマ5世の半血妹であるスナンダ・クマリラタナである。カーナボーン・ベジャラタナは、避暑のためにバーンパイン宮殿に向かう途上のボート転覆事故で、母親と母親が当時妊娠していた胎児と共に水難死した[1]。事故当時、母親であるスナンダ・クマリラタナは彼女をベビーカーに乗せており、さらに身重であったため逃げ遅れた。ボートには国王が不在であり現場の指揮は護衛の責任者であるマハー・モントリー卿に委ねられた。現場にいた人々の証言によれば、彼は王室典範にある「平民が王妃に触れることは死刑」という条項に則って周辺の村民による救助を許さず、ボートに近づくこともしばらく許可しなかった。結局はこのことが迅速な救助を遅らせ、30分以上経ってから転覆したボートは移動されたが、王妃と胎児およびカーナボーン・ベジャラタナ王女は水死した。この事故において、事故および救助が遅れたこと自体の責任は誰も問われなかった一方で、護衛の責任者であるマハー・モントリーは保身のために虚偽の言い訳をし救助に関わる責任を十分に全うしなかった点を問われ、官位剥奪の上禁錮三年とされた[2]

祖先

カーナボーン・ベジャラタナの系譜
16. (=24.) ラーマ1世
8. (=12.) ラーマ2世
4. (=6.) ラーマ4世
2. ラーマ5世
1. カーナボーン・ベジャラタナ
24. (=16.) ラーマ1世
12. (=8.) ラーマ2世
6. (=4.) ラーマ4世
3. スナンダ・クマリラタナ

参考文献




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