カタリーナ・フォン・ハプスブルク (1320-1349)とは? わかりやすく解説

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カタリーナ・フォン・ハプスブルク (1320-1349)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/25 08:58 UTC 版)

カタリーナ・フォン・ハプスブルク
Katharina von Habsburg

出生 (1320-02-09) 1320年2月9日
死去 (1349-09-28) 1349年9月28日(29歳没)
埋葬 神聖ローマ帝国
チロル伯領、ケーニヒスフェルデン修道院英語版
配偶者 クシー領主アンゲラン6世
  マクデブルク城伯コンラート2世・フォン・ハルデック
子女 アンゲラン7世
家名 ハプスブルク家
父親 オーストリア公レオポルト1世
母親 カタリーナ・ディ・サヴォイア
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カタリーナ・フォン・ハプスブルク(ドイツ語:Katharina von Habsburg, 1320年2月9日 - 1349年9月28日)またはカトリーヌ・ドードリッシュ(フランス語:Catherine d'Autriche)は、オーストリア公レオポルト1世の娘。クシー領主アンゲラン6世およびマクデブルク城伯コンラート2世・フォン・ハルデックと結婚した[1]

生涯

カタリーナはオーストリア公レオポルト1世およびカタリーナ・ディ・サヴォイアの長女として生まれた[2]。妹アグネスはシフィドニツァ公ボルコ2世マウィと結婚した。父方の祖父はアルブレヒト1世、母方の祖父母はサヴォイア伯アメデーオ5世とその2番目の妃マリー・ド・ブラバンである[1]

父レオポルト1世はカタリーナが6歳の時に死去し、カタリーナと4歳の妹アグネスは、おじのフリードリヒ3世アルブレヒト2世の後見のもとにおかれた。

カタリーナは18歳の時、フランス貴族のクシー領主アンゲラン6世と結婚した。結婚契約書は1338年11月25日ヴァンセンヌにおいて署名された。この結婚により1男アンゲラン7世が生まれた。結婚から8年たった1346年、アンゲラン6世はクレシーの戦いにおいて戦死した。息子アンゲラン7世がクシーを継承し、後にイングランド王エドワード3世の娘イザベラと結婚した。

アンゲラン6世の死から2年後の1348年2月、カタリーナはマクデブルク城伯コンラート2世・フォン・ハルデックと再婚した。しかし翌1349年9月25日にコンラート2世はペストで死去し、カタリーナもその3日後に死去した。カタリーナはケーニヒスフェルデン修道院英語版に埋葬された。

脚注




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