カイホスロ_(ムフラニ公)とは? わかりやすく解説

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カイホスロ (ムフラニ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/05 22:33 UTC 版)

カイホスロ
თეიმურაზ I

ムフラニ公
在位期間
1625年1626年
先代 テイムラズ1世
次代 ダヴィト

出生 1582年
死亡 1629年10月3日
オスマン帝国
家名 ムフラニ家グルジア語版
父親 ヴァフタング1世
母親 ホラムゼwikidata
信仰 ジョージア正教会
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ムフラニ公カイホスログルジア語: ქაიხოსრო მუხრანბატონიグルジア語ラテン翻字: Kaikhosro Mukhranbatoni1582年1629年10月3日)は、カルトリ王国バグラティオニ王家グルジア語版の傍系であるムフラニ家グルジア語版の貴族(タヴァディグルジア語版)。1625年、兄テイムラズ1世の戦死を受けてムフラニバトニ)の地位を継承した。内カルトリグルジア語版軍管区職権上の司令官であり、カルトリ王国の摂政も務めた。1626年の内戦ではギオルギ・サアカゼグルジア語版に味方し、カヘティ王テイムラズ1世グルジア語版と対立した。その後カイホスロはサアカゼらとともにオスマン帝国に亡命。3年間の軍務を経た後、反逆罪でサアカゼとともに処刑された。

生涯

カイホスロはムフラニ公ヴァフタング1世の息子であり、テイムラズ1世の弟であった。1625年に兄テイムラズがサファヴィー朝イランとの戦闘(マラブダの戦いグルジア語版)で戦死すると、カイホスロはムフラニの領地を継承した。カイホスロはサファヴィー朝の覇権に対する反乱時に摂政となる手助けをした将軍ギオルギ・サアカゼグルジア語版と同盟を結んでいたが、当時対立関係にあったアラグヴィ公ズラブ1世グルジア語版はこの同盟に不快感を示した。ズラブの弟ギオルギはカイホスロの娘エレネと結婚していたことから、弟ギオルギが陰謀に加担していると考えるようになり、ズラブは弟ギオルギの目を潰した。サアカゼはカヘティ王テイムラズ1世グルジア語版がカルトリの王位にも就こうとする動きを阻止しようとしていたことから、ズラブはこれに対抗してテイムラズ1世と同盟を結んだ[1][2]

1626年、ジョージアの貴族間の対立は、内戦へと発展した。サアカゼとカイホスロらは、カヘティ王テイムラズ1世とその同盟軍と戦い、敗北した(バザレティの戦いグルジア語版)。敗れたサアカゼとカイホスロらはオスマン帝国に亡命、そこで皇帝ムラト4世の軍務に就いた。一方でカイホスロの子供たちや甥たちは、ジョージア西部のイメレティ王国グルジア語版に避難した。サアカゼとカイホスロは、ともにオスマン帝国の宮廷での陰謀に巻き込まれ、犠牲となった。彼らは反逆罪で告発され、1629年に大宰相ヒュスレヴ・パシャトルコ語版の命令で斬首刑に処せられた[1][3][4]

結婚と子女

カイホスロ公は、グリア公グルジア語版マミア2世グルジア語版の娘ティナティンwikidataと結婚した。二人の間には3人と息子と3人の娘が生まれた。

  • アショタン(1697年没) - ムフラニ公(1688年–1692年)
  • バグラトwikidatafl. 1618 – c. 1622) - アミラフヴァリ家グルジア語版の娘ケテヴァンwikidataと結婚し、息子2人――シモンとニコロズ(後のボルニシ司教)――をもうけた。バグラトの子孫は1795年まで繁栄した。
  • ドメンティグルジア語版(1676年没) - ジョージアのカトリコス総主教英語版(1660年–1676年)
  • デディシメディ(1671年没) - 下サツィツィアノ公パプナ・ツィツィシヴィリ(1663年没)と結婚
  • エレネ(1675年以降没) - アラグヴィ公グルジア語版ヌグザルグルジア語版の息子ギオルギwikidata(1647年以降没)と結婚
  • ティナティン - ダヴィティシヴィリ家のエリズバルと結婚[5]

関連作品

小説

注釈

  1. ^ a b Bagrationi, Vakhushti (1976). Nakashidze, N.T.. ed (Russian). [History of the Kingdom of Georgia]. Tbilisi: Metsniereba. pp. 39–43. オリジナルの2013-10-29時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131029195829/http://www.nplg.gov.ge/dlibrary/collect/0001/000029/Istoria_Carstva_Gruzinskogo.pdf+2013年12月7日閲覧。 
  2. ^ Allen, W.E.D., ed (1970). Russian Embassies to the Georgian Kings, 1589-1605. Cambridge: Cambridge University Press. p. 547 
  3. ^ Brosset, Marie-Félicité (1831) (French). Chronique géorgienne, traduite par m. Brosset jeune membre de la Société asiatique de France [Georgian Chronicle, translated by Mr. Brosset, junior member of the Asiatic Society of France]. Paris: De l'Imprimerie royale. pp. 13–22. https://books.google.com/books?id=Q__UAAAAMAAJ&q=Souram+Nestan&pg=PA14 
  4. ^ Rayfield, Donald (2012). Edge of Empires: A History of Georgia. London: Reaktion Books. p. 197. ISBN 978-1780230306 
  5. ^ Metreveli, Roin, ed (2003) (Georgian, English). ბაგრატიონები. სამეცნიერო და კულტურული მემკვიდრეობა [Scientific and Cultural Heritage of the Bagrationis]. Tbilisi: Neostudia. p. Table 8. ISBN 99928-0-623-0 

参考文献

爵位・家督
先代
テイムラズ1世
ムフラニ公
1625年 – 1626年
次代
ダヴィト



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