エルサレム攻囲戦 (紀元前701年)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エルサレム攻囲戦 (紀元前701年)の意味・解説 

エルサレム攻囲戦 (紀元前701年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/23 20:37 UTC 版)

エルサレム攻囲戦 (紀元前701年)

ヒゼキヤの城壁
紀元前701年
場所 ユダ王国エルサレム
結果 勝敗つかず
衝突した勢力
新アッシリア帝国 ユダ王国
指揮官
センナケリブ
ラブ・シャケ
ラブサリス
ヒゼキヤ
エルヤキム
シェブナ
ヨア

アッシリアによるエルサレム攻囲戦 (紀元前701年)(Assyrian siege of Jerusalem)は、当時ユダ王国の首都であったエルサレムが新アッシリア帝国の王センナケリブが率いる軍によって包囲された事件である。一連の軍事作戦において、新アッシリア軍は要塞都市を攻撃し、ユダ国内の諸地方を破壊した。センナケリブはエルサレムを包囲したが、占領することはできなかった。占領に失敗して包囲を解くと、センナケリブはレヴァント地方における遠征を終了して引き上げた。

センナケリブの年代記には、王がユダのヒゼキヤを「籠の中の鳥のように」エルサレムに閉じ込め、後にユダから貢物を受け取ってアッシリアに帰還した様子が記されている。ヘブライ語聖書では、ヒゼキヤがアッシリアに銀300タラントと金30タラントを支払ったと記されている。聖書の物語によれば、センナケリブは軍を率いてエルサレムに進軍したが、エルサレムの門の近くで天使に打ち倒され、ニネヴェへ撤退したとされている。

聖書の考古学理論によれば、シロアムのトンネルとエルサレムの広い城壁は、差し迫った包囲に備えてヒゼキヤによって建設された。

背景

紀元前720年、アッシリア軍は北イスラエル王国の首都サマリアを占領し、多くのイスラエル人を捕虜として連れ去った。イスラエルが事実上滅亡したため、南王国ユダは、戦争を繰り広げる近東の諸王国の中で自力で生き延びなければならなくなった。北王国の滅亡後、ユダの王たちは追放されなかった住民にまで影響力と保護を広げようとしたほか、イスラエル王国が以前支配していた北方の地域にまで自らの権力を拡大しようとした。アハズ王とヒゼキヤ王の治世の後半は、ユダが政治的にも経済的にも基盤を固めることができた安定期だった。ユダは当時アッシリアの属国であり、強大な帝国に毎年貢物を納めていたが、アッシリアとエジプトの間で最も重要な国家でもあった[1]

ヒゼキヤがユダの王となったとき、彼は宗教的偶像の破壊を含む広範囲にわたる宗教改革を始めた。彼はネゲブ砂漠のペリシテ人占領地を奪還し、アスカロンやエジプトと同盟を結び、貢物の支払いを拒否することでアッシリアに対して抵抗した[2]。これに対して、セナケリブはユダを攻撃し、エルサレムを包囲した。

包囲

それぞれの史料が、自分たちの勝利を主張している。ユダヤ教徒(または聖書の著者)はヘブライ語聖書において、センナケリブは角柱に記した記録において、自国の勝利を主張した。もっとも、センナケリブは、ユダヤの多くの都市を包囲して占領したと主張しているが、その一方で、エルサレムは包囲しただけであり、占領したとまでは書いていない。

ヘブライ側の記述

シロアムのトンネル内部, 2010
センナケリブから解放されるエルサレム, 1860年、ジュリアス・シュノール・フォン・カロルスフェルトによる木版画

アッシリアの包囲の物語は、聖書のイザヤ書(紀元前7世紀)、列王記下(紀元前6世紀半ば)、歴代誌(紀元前350-300年頃)に語られている[3]。アッシリア人が侵略を始めると、ヒゼキヤ王はエルサレムを守る準備を始めた。アッシリア人が水を手に入れることを防ぐため、都市の外の泉は塞がれた。その後、作業員たちはギホンの泉まで533メートルのトンネルを掘り、街に新鮮な水を供給した。新たな包囲対策として、既存の壁の強化、塔の建設、新しい補強壁の建設が行われた。ヒゼキヤは広場に市民を集め、アッシリア人は「肉の腕」しか持っていないが、ユダヤ人はヤハウェの保護を持っていることを思い出させて彼らを激励した。

列王記下18章によると、センナケリブがラキシュを包囲していたとき、ヒゼキヤはセンナケリブに対し、アッシリアの撤退と引き換えに貢物を納めるというメッセージを送った。旧約聖書によれば、ヒゼキヤはアッシリアに銀300タラントと金30タラントを支払ったが、その負担はあまりにも莫大であったため、ヒゼキヤは神殿と王家の宝物庫から銀を抜き取り、ソロモンの神殿の戸口から金を剥ぎ取らざるを得なかった。それにもかかわらず、セナケリブは大軍を率いてエルサレムに進軍した。アッシリア軍が到着すると、その野戦指揮官ラブシャケがセンナケリブからの伝言を携えて来た。ユダヤ人の士気をくじこうとして、ラブシャケは城壁の上の民衆に対し、ヒゼキヤが民衆を欺いており、ヤハウェはエルサレムをアッシリアの王から救い出すことはできないと告げた。彼は、センナケリブに敗北した他の国の神々を列挙してから、「これらの国の神々のうち、誰がその国を救うことができたのか?」と尋ねた。

包囲の間、ヒゼキヤは喪の印として粗布をまとっていたが、預言者イザヤは彼に、都市は解放され、セナケリブは敗北するだろうと保証した[1]。イザヤ書によれば、天使が一晩でアッシリア軍18万5000人を殺したという[2]。一部の学者はこの数字は誤って転写されたと信じており、ある研究では元々この数字は5,180であったと示唆している[4][5]。ダニエル・カーン氏は、その大きな数字は誇張だが、5,180という数字はあまりにも少なすぎると述べている[6]。別の学者は、聖書の物語はエルサレムを救う奇跡で終わる伝説的な装飾で特徴づけられると指摘している[7]

アッシリア側の記述

センナケリブの角柱

センナケリブによるユダ王国遠征の出来事は、センナケリブの角柱にが詳しく記されている。この角柱は1830年にニネベの遺跡で発見され、現在はイリノイ州シカゴの東洋研究所に保管されている[2]。この角柱は紀元前690年頃に作られ、その記述は紀元前700年に遡る楔形文字の碑文に記されている[8]。角柱の文書では、センナケリブがユダの46の都市を破壊し、ヒゼキヤを「檻の中の鳥のように」エルサレムに閉じ込めたことを誇らしげに語っている。文書はさらに、アッシリア軍の「恐ろしいほどの壮麗さ」が、都市を援護していたアラブ人と傭兵をどのようにして脱走させたかを説明している。さらに、アッシリア王はアッシリアに戻り、後にユダから多額の貢物を受け取ったとも記されている。この説明は、旧約聖書におけるユダヤ側の話とは若干異なっている。旧約聖書に記されているアッシリア人の大規模な犠牲者については、アッシリア版では言及されていない。

センナケリブはエルサレムを包囲した後、エクロン、ガザ、アシュドドのアッシリアの属国支配者たちに周囲の町を与えることができた。彼の軍隊は紀元前702年と紀元前699年から紀元前697年まで作戦を行ったときにはまだ存在していた。彼は当時アッシリアの東の山岳地帯でいくつかの遠征を行い、そのうちの一つでメディア人から貢物を受け取った。紀元前696年と紀元前695年に、彼はアナトリアに遠征隊を派遣した。そこではサルゴン2世の死後、数人の家臣が反乱を起こしていた。紀元前690年頃、彼はアラビア北部の砂漠で遠征し、アラブ人の女王が避難していたドゥマト・アル・ジャンダルを征服した[9]

他の仮説

ヘロドトスは、アッシリア軍がエジプトを攻撃した際にネズミに襲われたと書いている[10]。聖書学者の中には、これはアッシリア軍が腺ペストなどのネズミ媒介性疾患の影響を受けたことを暗示していると考える者もいる[11][12]。ジョン・ブライトは、その説明に頼らずとも、エルサレムを救ったのは何らかの伝染病であったと示唆した[13]。バビロニアの歴史家ベロッソスもまた、この疫病がアッシリア軍を包囲戦で敗北させたと書いている[14]

ヘンリー・T・オービンは『エルサレムの救出』の中で、紀元前701年のヘブライ人とアフリカ人の同盟により、アッシリア軍はクシュ人(ヌビア人)率いるエジプト軍によって敗走した、と書いている[15][16]。その一方で、ナゼク・マティは考古学的分析の中で、オービンのエジプト仮説はありそうにないと主張している[17]。D.D.ラッケンビルは、(アッシリアの敗北を記録する時間は十分にあったはずの)バビロニア年代記にはアッシリアがエジプトに敗北したとの記述がないため、センナケリブが記録した、紀元前701年のエジプトに対する勝利は正しいに違いない、と述べた[18]。ポール・エヴァンスは、エジプトの記録でさえ、紀元前701年にエジプトがアッシリアに対して軍事的に勝利したとは記録していない、と述べている[19]

大衆文化

1813 年にバイロン卿が書いた詩「センナケリブの滅亡」は、ヘブライ人の観点からユダヤにおけるセンナケリブの遠征を記念している。この詩はアナペスト四歩格[20]で書かれており、学校での暗唱で人気があった[要出典]

古代史料

脚注

  1. ^ a b Malamat 1976.
  2. ^ a b c Pritchard 1955, pp. 287ff.
  3. ^ Evans 2023, p. 89.
  4. ^ Bright 2000, p. 301 脚注13番.
  5. ^ Lobban 2021, p. 343.
  6. ^ Kahn 2020, p. 147.
  7. ^ Lemche 2008, p. 118.
  8. ^ Kalimi & Richardson 2014, pp. 53–54.
  9. ^ Grayson 1991, p. 111-113.
  10. ^ ヘロドトス『歴史』第2巻第141節
  11. ^ Douglas 1982, p. 147.
  12. ^ Caesar 2017, pp. 222–228.
  13. ^ Bright 1980, p. 200.
  14. ^ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』第10巻第1章第5節
  15. ^ Aubin 2002.
  16. ^ Bellis 2019.
  17. ^ Matty 2016.
  18. ^ Evans 2012, p. 18.
  19. ^ Evans 2012, p. 19.
  20. ^ 「弱弱強」の詩脚(アナペスト)が4つ繰り返されるもの。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  エルサレム攻囲戦 (紀元前701年)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エルサレム攻囲戦 (紀元前701年)」の関連用語

エルサレム攻囲戦 (紀元前701年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エルサレム攻囲戦 (紀元前701年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエルサレム攻囲戦 (紀元前701年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS