エクベルト1世 (マイセン辺境伯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エクベルト1世 (マイセン辺境伯)の意味・解説 

エクベルト1世 (マイセン辺境伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 08:29 UTC 版)

エクベルト1世(Ekbert I.、1068年1月11日没)は、ブルノン家出身のザクセン伯、マイセン辺境伯

エクベルトは、ザクセン貴族のリウドルフ1038年没)の息子で、彼からブラウンシュヴァイク周辺の所領を相続した。ヒルデスハイム司教区に隣り合ったオストファーレン伯領は1051年に創設された。これに加えてエクベルトは、ハンブルクブレーメン大司教領となっていたかつてのフリースラント伯領を獲得した。ザーリアー家との親密な血縁関係にもかかわらず、エクベルトは1062年におきたカイザースヴェルトのクーデターと言われる未成年のローマ王ハインリヒ4世の誘拐に関わっている。1067年にエクベルトはマイセン辺境伯領を与えられた。

彼は1058年に、シュヴァーベン公爵オットー3世1057年没)の未亡人イルムガルト・フォン・トリノ(トリノ辺境伯オルデリーコ・マンフレーディ2世の娘)と結婚した。彼女は、姉アーデルハイドを介して、ハインリヒ4世の皇妃ベルタ・フォン・トリノの叔母にあたる。エクベルト1世の後継者は息子のエクベルト2世であったが、エクベルト2世が、1090年に子供を遺さずに亡くなると、ブルノン家の所領はその妹のゲルトルート・フォン・ブラウンシュヴァイクのものとなった。

エクベルト1世は、ブラウンシュヴァイク領内での商取引を奨励し、またその地のキリアクス修道院を創設したと推定されている。ブルノン家の墓所はこの修道院にある。

外部リンク

(ドイツ語版の外部リンクとして挙げられているものであり、日本語版の作成に直接参照はしておりません)

先代:
オットー
マイセン辺境伯
1067年 - 1068年
次代:
エクベルト2世



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エクベルト1世 (マイセン辺境伯)」の関連用語

エクベルト1世 (マイセン辺境伯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エクベルト1世 (マイセン辺境伯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエクベルト1世 (マイセン辺境伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS