エウヘニア・オステルベルヘルとは? わかりやすく解説

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エウヘニア・オステルベルヘル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 20:44 UTC 版)

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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はオステルベルヘル第二姓(母方の)はルアルドです。
エウヘニア・オステルベルヘル
基本情報
出生名 Eugenia Osterberger
生誕 1852年12月20日
スペインサンティアゴ・デ・コンポステーラ
死没 (1932-02-08) 1932年2月8日(79歳没)
フランスニース
職業 作曲家ピアニスト
担当楽器 ピアノ

エウヘニア・オステルベルヘル(Eugenia Osterberger)として知られるプルデンシア・エウヘニア・フアナ・オステルベルヘル・ルアルド(Prudencia Eugenia Juana Osterberger Luard, 1852年12月20日 - 1932年2月8日)は、スペインサンティアゴ・デ・コンポステーラ出身の作曲家ピアニストソーニエ夫人(Madame Saunier)としても知られている。

経歴

交友があった女流小説家エミリア・パルド・バサン

父親はフランスアルザス地域圏出身、母親はスペインガリシア地方ア・コルーニャ出身である。1852年12月20日にサンティアゴ・デ・コンポステーラに生まれ、すぐに音楽に興味を示したことから、幼少時からピアノを習った。彼女はやがてフランスに渡り、フランス人技師のフランシスコ・ソーニエと結婚して、ア・コルーニャに落ち着いた。

ガリシア地方では当時の著名な音楽家のみならず、1歳年上の女流小説家エミリア・パルド・バサン英語版など、著名な文学人とも交友があった。音楽分野での貢献が評価され、1906年にレアル・アカデミア・ガレガ英語版(ガリシア王立アカデミー)が設立されると、彼女はその会員に推挙された。1908年には家族とともに南フランスのニースに転居し、死去する1932年までニースで暮らした。

作品

彼女の作品はほとんど知られていないものの、ア・コルーニャのカヌート・ベレアスペイン語版出版、パリのF・ローレンス社、マドリードのベニート・ソサージャ社やカーサ・ドテシオ社から出版されている。彼女が作曲した作品には、ピアノのみのための曲や、ピアノと声楽のための曲などがある。彼女は楽曲の製作だけでなく、ガリシア文化の発展のための活動も行った[1]。ア・コルーニャ時代のピアノの教え子には、後にマドリードで活躍した女性ピアニストピラール・カスティージョ・サンチェスガリシア語版がいる[2]

脚注

  1. ^ Eugenia Osterberger”. ガリシア州政府. 2018年3月3日閲覧。
  2. ^ Santos Castroviejo, Nanina (2007年). “Pilar Castillo Sánchez. Pianista de sona nos comezos do século XX.”. Consello da Cultura Galega. 2018年2月20日閲覧。

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