ウラジーミル・リヴォヴィチとは? わかりやすく解説

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ウラジーミル・リヴォヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 05:45 UTC 版)

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ウラジーミル・リヴォヴィチ
Владимир Львович
ハールィチ・ヴォルィーニ大公
在位 1323年 - 1325年?

死去 1324年または1340年
王家 リューリク家
父親 ガーリチ公レフ
母親 オリガ・ロマノヴナ
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ウラジーミル・リヴォヴィチロシア語: Владимир Львович、生年不詳 - 1324年または1340年)は、ガーリチ公レフの子である。母はムスチスラヴリ公ロマンの娘オリガ[1]。ガーリチ・ヴォルィーニの統治期間は1323年から1325年、あるいはこの期間以内とみられている[2]

ウラジーミルに関しては、ルーシのレートピシ年代記)には言及がみられない[3]。また、ポーランドの史料によれば、ウラジーミルは名目上の統治者であり、実権はボヤーレ(貴族層)の長ドミトリー・デティコ(ru)が握っていたと記されている。とはいえ、リトアニアの年代記にも、ウラジーミルは、イルピン川の戦いにおいてゲディミナスと戦ったヴォルィーニ公として記されている[4]

ウラジーミルの最後に関しては、リトアニアの年代記は、ウラジーミルはこの1324年のイルピン川の戦いで戦死したと記している。一方、『リトアニアジュマイディヤ年代記(ru)』では、1340年にウラジーミルは死亡し、それによってリュバルタスがヴォルィーニ、ルーツクの全域を手中に収めたと記されている。

いずれにせよ、ウラジーミルが、ガ-リチ・ヴォルィーニ公国を統治したリューリク朝の一系統であるロマン家(ru)の、男系の最後の末裔となった[5]

出典

  1. ^ Владимир Львович // Славянская энциклопедия — Владимир Вольфович Богуславский
  2. ^ Широкорад А. Русь и Литва // Галицкое Королевство. — М.: Вече, 2004. — С. 50, 52, 56-60, 83, 370.
  3. ^ Владимир Львович // ブロックハウス・エフロン百科事典 : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.
  4. ^ Летопись Археологического товарищества
  5. ^ Владимир Львович. Большой Русский Биографический Словарь



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