アンナ・フォン・エスターライヒ_(1318-1343)とは? わかりやすく解説

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アンナ・フォン・エスターライヒ (1318-1343)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/21 07:09 UTC 版)

アンナ・フォン・エスターライヒ
Anna von Österreich

出生 1318年
死去 1343年12月14/15日
神聖ローマ帝国
オーストリア公国ウィーン
配偶者 下バイエルン公ハインリヒ15世
  ゲルツ伯ヨハン・ハインリヒ4世
家名 ハプスブルク家
父親 ローマ王フリードリヒ3世
母親 イサベル・デ・アラゴン
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アンナ・フォン・エスターライヒ(ドイツ語:Anna von Österreich, 1318年 - 1343年12月14/15日)は、バイエルン公妃、のちゲルツ伯妃[1]

生涯

アンナはローマ王フリードリヒ3世イサベル・デ・アラゴンとの間の娘である。1321年か1322年に後のポーランド王カジミェシュ3世と婚約したが、父フリードリヒ3世がミュールドルフの戦い英語版で敗北した後、解消された。1326年、アンナは下バイエルン公ハインリヒ15世と結婚したが、ハインリヒ15世は1333年に死去した。その3年後、アンナはゲルツ伯ヨハン・ハインリヒ4世と結婚したが、ヨハン・ハインリヒ4世も1338年に死去した。どちらの結婚でも子供は生まれなかった。2度目の夫の死後、アンナはクララ会修道院に入り女子修道院長となった。

参考文献

  • Hamannová B., Habsburkové. Životopisná encyklopedie, Praha 1996, s. 62.
  • Jasiński K., Rodowód Piastów małopolskich i kujawskich, Poznań-Wrocław 2001, s. 166-167.

外部リンク

脚注

  1. ^ Foundation for Medieval Genealogy



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