アンジェラ・マリーア・カテリーナ・デステとは? わかりやすく解説

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アンジェラ・マリーア・カテリーナ・デステ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/23 16:30 UTC 版)

カテリーナ・デステ、リゴーの追随者による、1690年頃
カテリーナ・デステ、作者・制作年代ともに不詳、ラッコニージ城所蔵

アンジェラ・マリーア・カテリーナ・デステAngela Maria Caterina d'Este, 1656年3月1日 - 1722年7月16日)は、イタリアの貴族女性。モデナ公チェーザレ・デステの孫娘の1人で、カリニャーノ公エマヌエーレ・フィリベルトの妻。

生涯

チェーザレ公の五男ボルソ・デステ英語版と、チェーザレ公の次男ルイジ・デステイタリア語版の庶出の娘イッポーリタ・デステの間の第5子・次女。洗礼名は父及び外祖父の姉妹で修道院に入ったエレオノーライタリア語版公女の修道名ソル・アンジェラ・カテリーナに因む。生後間もなく両親を相次いで亡くし、3人の兄たちとともに外祖父のスカンディアーノ侯爵ルイジの手元で養育された。美人と評判であった。

1684年、サヴォイア家の分家筋のカリニャーノ公に求婚される。公は当時56歳と高齢でしかも聾唖の障害があったが、本家のモデナ公家は2人の結婚を許可した[1]。正式の婚礼に先立ちモデナで代理結婚式が行われ[2]、 新婦の兄の1人チェーザレ・イニャツィオ・デステイタリア語版が花婿役を務めた[2]。1684年11月10日、ラッコニージ城英語版にて身内だけの簡素な婚礼が挙げられた。

カリニャーノ公は結婚当時サヴォイア公爵位の推定相続人の地位にあり、フランス王ルイ14世はフランス宮廷から彼に花嫁を送り込もうとしていたため、カテリーナの家柄が低くサヴォイア家に釣り合わないことを口実に、この結婚に反対した。2人の結婚に腹を立てたルイ14世はカリニャーノ公夫妻がフランス宮廷に参内する権利を剝奪した。

子女

夫との間に4子があった。

  • マリーア・ヴィットーリア (1687年 - 1763年)
  • イザベッラ・ルイーザ (1688年 - 1767年)
  • ヴィットーリオ・アメデーオ(1690年 - 1741年) - カリニャーノ公
  • トンマーゾ・フィリッポ・ガストーネ (1696年 - 1715年)

引用・脚注

外部リンク

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